僕の願い

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彼女の家はわかっていた。 小さい頃から何度も遊びに行っていたから。 午後7:00――そろそろ帰宅する時間だろうか。 周りには何もない田舎町の市役所に勤め、真面目に育った人だから、どこにもよらず、まっすぐ帰ってくるはずだ。 チャンスは一度しかない。 だから門の前で待つ僕の手は緊張で自然と汗ばんでくる。 曲がり角の隅に人影を捉えた。歩き方、背格好、柔らかなその雰囲気ですぐにわかった。 まちがいない。彼女だ。 小柄なショルダーバッグを肩にかけた彼女は、近づいてきた僕の存在になんの不審感も抱かず、会釈して通り過ぎようとする。 田舎町は子供や若い人ほど警戒心が薄く、老人になるほど猜疑心が強くなる。 若年層はのんびりしていて、高齢者は暇なせいだ。 すれちがおうとした彼女に僕は慎重に声をかけた。 「中川春子さんですね」 「はい」 相変わらずなんの不信感も警戒心もない表情で僕を見つめる。 返って何か困ったことがあるのかしらと親切な気遣いの様子さえ見せている。 暢気だ。暢気すぎる。 なぜ不思議に思わないのだろう、目の前の僕の顔を。 僕は鼻で深い深呼吸する。 そして、彼女の警戒心のなさが崩れないようにと願いながらできるだけ朗らかに、でも真剣さが伝わるように努めて話した。 「はじめまして。僕は大野海人と言います。大野トビオとは血筋に当たります」 「トビオさんの御親戚の方ですか。私と同じ歳くらいの男の方がいるのは聞いたことがなかったけれど」 彼女の顔が華やいだ。 「大野トビオ」の名前を聞いただけでもう舞い上がっている。 彼女の能天気さに不安をおぼえながら、僕はさらに慎重に言葉を選んだ。 「いまは昭和55年。つまり西暦1980年。あなたは翌年7月に大野トビオと挙式予定のはずです。つまりいまからちょうど1年後」 「ええ、そうですけど?」 「あなたは彼の飲酒癖に気づいていながらこの結婚を進めるんですか」 えっ、と彼女が眉をひそめる。 初めて僕に対する警戒の色を示した。 僕は彼女がいつ逃げ出しても捕まえられるように神経を張り巡らせながらさらに言葉を重ねた。
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