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「……むら……た……。なん……で……。……ゆ……る……し……」
黒岩は道路上にへばりつきこの上なく情けない表情で口をパクパクとさせている。
俺をじっと見つめながら、黒岩の体は完全に動かなくなった。
今日もこの男は最悪だった。
出社早々同じ営業所の坂口を応接室に呼びつけ、その後は罵倒の嵐だった。
漏れ聞こえてきた内容から察するに、おそらく坂口が取引先で何か失態を犯し取引先から黒岩のところにクレームがきたという状況だったのだろう。
応接室からは「俺の顔が」という言葉が何度も聞こえてきた。
黒岩は部下が取引先に迷惑をかけてしまったことではなく、部下のせいで自分自身の体面が汚されたことにあれだけ頭に血を上らせていたのだ。
どこまでいってもこいつは自分のことしか考えていない。
応接室から戻ってきた坂口はひどく落ち込んだ様子だった。
自分のデスクに戻った後は何度もため息をつき、時折「昨日に戻れたら……」などとぼそぼそつぶやいていた。
その光景はデータを無くして黒岩に怒鳴られた時の自分の状況を思い出させる。
おそらく坂口も俺がそうだったように昨日の自分の行動を酷く悔やんでいるはずだ。
「死ね」だの「消えろ」だの卑劣な言葉を浴びせる目の前の男への怒りや反抗する気持ちよりも先に、自分自身の過ちばかりに焦点がいき、そして“もう一度昨日をやり直したい”などと本来ならばあり得もしないようなことを真っ先に考えていたのだろう。
俺と同じように、“昨日に戻りたい”と強く願っていただろう。
こんな会社でしか働き口がないような俺や坂口みたいな人間の思考回路はせいぜいこんなものだ。
だから俺が制裁を加えなければいけない。
俺や坂口のような弱い人間を道具のように扱い、自分だけ楽をしようとする下劣な男には天罰を与えなければならない。
何度だって苦しめばいい。
道路の前方からヒールの足音が聞こえてくる。
ふと視線を上げると、暗くてよく見えないがおそらく女性の人影が相向かいに歩いてくる。
そして血だらけで倒れている黒岩とその横で包丁を持って立っている俺がハッキリと見える距離まで近づいて、ようやく女はこの状況を認識できたのだろう。
女は空気が張り裂けるような悲鳴を上げて、その場で腰を抜かしてしまった。
こうなった後の流れはだいたい変わらない。
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