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耳元が死を錯覚した。銀斧の刃先が、木の幹をざくりと割った。
──逃げなくては。
鏡面にうつる恐怖におおのく顔は、あどけなさを残した少女のもの。
鬱蒼とした森の中、足元の石を蹴飛ばし、ひたすら走り続ける。
鉄錆の悪臭がそこら中に漂っていた。
暗がりの木々の隙間から見える陣営駐屯地。
拠点のテントから、赤々とした火の手が上がり、空を焦がしていく。
背後には追跡者。それも複数。
少女は火の粉で色づいた幹の隙間に身を滑り込ませた。
追跡者は気付かずに素通りしていき、やがて姿が見えなくなる。
「はぁっ、はぁっ」
張り詰めていた緊張の糸がほぐれていき、安心したからか、膝が笑い始め、少女はその場にへたり込んでしまった。
梢をとおして落ちてくる円月の光。
薄汚れた短い金の髪から何かがすっとこめかみを伝った。
汗と返り血が混じって薄くなった奇妙な液体。
地面をぬらし、赤く染めていくそれが嫌でも現実に引き戻す。
見習い騎士からようやく昇格して初めての遠征。
何の問題もない、楽な任務のはずだった。
突如として現れた謎の集団が、この夜襲を仕掛けてさえ来なければ。
疲れ果てて濁った緑の瞳をうっすら細める。この遠征地から遠く離れた故郷の村を想った。
困った時、悲しい時、少女を支えてきた、ある言葉が脳裏に浮かぶ。
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