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呼び止められて、振り返るとそこには予想通り、へらりと笑う彼がいた。
あぁ、なんでこういう最悪のタイミングで彼はいつもやってくるのか。心の中で毒づき、表情にも露骨に嫌悪の表情を浮かべ、雨理(あめり)は彼をにらんだ。
「ドクター…………なにか用?今日はもうこれから帰るところなんだけど」
刺のある声で雨理が言えば、ドクターと呼ばれた彼はふわりと柔らかな笑みを浮かべる。その雰囲気が、パーマなのか天然なのかわからない彼の癖っ毛みたいだった。何年も前、彼と出会った頃は彼の外見にときめき、その髪に触れてみたいなんて思っていた雨理だったが、それももう遠い昔の話だ。
「なんで来ないの?」
笑顔のままドクターは言う。彼はいつも言葉が足りない。でも、もう長い付き合いだ。雨理はそれだけで彼がわざわざやってきた理由がわかってしまった。
「あー、忙しいのよ…………ここのところの雨で、出動要請が多くて」
「でも、他の人はちゃんと来るよ?なんで雨理ちゃんだけ来ないの?」
ちゃんづけで呼ばれるとどうもこそばゆくて、雨理は微妙な顔をした。出会った頃の十代とは違うのだからその呼び方はなんとかならないのか。いつもの診察室でならまだしも、仕事場でそう呼ばれるとどうも落ち着かない。
「定期検診にちゃんと来ないと、出動停止にしちゃうよ?」
この言葉を聞くたびに、雨理はドクターの方が立場が上だと思った。出動停止になどされたらたまったものじゃない。
「わかりました。行きますよ」
雨理が嫌みっぽく敬語を使ったのに、ドクターは気にすることなく嬉しそうに笑う。
「三日以内に来ること。じゃなきゃあ一ヶ月出動停止にするからね」
さりげなく雨理を脅し、ドクターは白衣を翻して去っていく。その背中を見ながら、雨理はそっとため息をはく。ドクターのおかげで泣きそびれてしまった。いや、ちょうどよかったのかもしれない。今は自分の涙をぬぐうことすらできないのだから。けれど、密かに失恋した心は重く、その痛みはきっと涙と一緒に吐き出してしまわなければどうにもならない状態だった。
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