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あれは、まだ自分が七つかそこらのときの話だった。
心を病んだ母と、その母を見ないふりをする父のいる家庭があまりに息苦しく窮屈だった。幸か不幸か、この御剣家は親族のつながりが強く、戦前ということもあって、叔父夫婦が自分の面倒を見てくれた。
だが時世が時世だったので、あの家で儂は奴隷やった。
穀潰し、お荷物。そんな餓鬼の世話なんて無償で引き受けるやつなどおらん。
叔父の家族が飯を食うている間、洗物をして、叔父が仕事に出ている間は家の掃除と洗濯をした。夜になると、家に帰ると酒を呑んで自分の不幸を嘆く父の世話をした。
学校にはかろうじて通えたが、遅刻は日常茶飯事で、教師には不真面目さを責められた。
この生活から抜け出したいと、一縷の希望を持って叩いたのが先々代菖蒲様の道場の門やった。
「帰れ。ここはお前のような子どもが来る場所ではない。」
後に師匠と仰ぐことになるその人は、素気無く、突然やってきた子どもを追い出した。
「僕が餓鬼や言うんはようわかっとります。でも、どうか、どうか貴女様の元に置いてください。お願いします!」
七つの子どもが地面に頭をこすり付ける様は、さぞかし滑稽に見えたことやろう。実際、師匠の後ろにいる門下生がくすくすと笑いながらこっちを見とった。
師匠はその弟子を睨んで退散させると、かがみこんで儂の顔を覗き込んだ。
「何故、私にこだわる?戦う術を身に着けたいのであれば、それこそ別の道場が適当であろう?なんなら紹介してやってもいい。
われらが学ぶのは対人の戦闘ではない。
お遊びでもない。君には向かぬ。他をあたりなさい。」
「わかっとります。でも、僕はここがええんです。どうか、どうか…。」
食い下がる儂に、師匠は目を細めて
「何故だ。そもそも、お前どこの子どもだ。私のことを”知って”いるのか?」
「は、はい。御剣のもんです。貴女のことは知っとりました、”菖蒲様”。」
菖蒲の名を出した途端に菖蒲様の動きが一瞬止まった。
「どこで知った?誰から聞いた?」
「そ、それは…。」
言えば、どうなるだろう?きっと自分は父のもとに戻される。父は僕が勝手な行動をしたことに怒り狂うに違いない。
どうしよう、どうしよう…やけど、きっと嘘は通じない。それは本能で分かった。
その時地面を見ていた儂の視界に影が差して頭上から知らない女の声が降ってきた。
「ええやない…じゃない。いいじゃないですか。菖蒲様。幼いころから基礎叩き込めば将来優秀な人材になるかもしれませんよ。」
恐る恐る顔を上げると柔和な表情を浮かべた、若い女性がそこにいた。菖蒲様より年は幾分か上くらいだろうか。
菖蒲様の眉間にしわが刻まれる。顔の下半分を布で隠していても、不快な感情が溢れ出ていた。
「胡蝶。余計な口を出すな。」
「私が出さなきゃ誰が出すのですか。こんな幼い子が頭を下げているのですよ?機会をあげてもよいでしょうに。」
この方が胡蝶様。先の頃の胡蝶の記憶を持った哨戒士――。彼女は僕ににこりと微笑みかけ菖蒲様に言葉をかける。
「たとえ年齢が十分でもあなたはいつも弟子希望者をふるいにかけるでしょうに。その試験に彼も参加させればいい。」
「…あの試験は、15,6の少年を想定している。その年頃なら危険はないがこんな小さな子には命の危険があるんだよ。」
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