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4日目の朝になった。
儂は精神的にも肉体的にも追い詰められていた。木の実を割る気力も湧かず、木の皮を食べて飢えをしのいだ。
また彷徨い歩き山を登って行った結果、どうやら参道を通らずして延暦寺に出てしまったようや。
これは良くない。人目につけば失格や。
そっと草むらに戻ろうとしたとき、誰かが寺から出てくるのが見えた。慌てて隠れる。人影は自分の隠れる草むらの前を通っていく。
そっと顔を覗かせて様子を伺うと、それは見覚えのある人物やった。
自分に嫌味を言ってきたあの男の1人だ。
えーー。
寺に入るのは決められた規則に違反してる筈や。なんで?なにをしていた?
男はきょろきょろと辺りを見回し、誰の目もないことを盛んに気にしていた。手には水筒と麻袋。
もしや水を汲み、食料を手に入れるために忍び入ったのか。
その瞬間、儂の心は揺れた。
そうかーー盗めば簡単や。
誰も見ていないなら決まりを破ったことだってバラやしないと。
しかし、それは道義に反する。その葛藤に震える。
するとその時やった。鴉がかぁと鋭く一声泣いたと思うと、儂らの周りの空気が一気に揺れた。
森がまるで責め立てるようにこの葉の音を立て、すぐにピタリと音は止んだ。
なんだ今のは。化物か何か出たのか。儂と同じことを思ったのか、男は怯えた表情で辺りを見回している。
次の瞬間、森から一斉に何かが彼の方に飛んでいく。
それが雀や鴉、鷹といった鳥たちだと気がつくのに少し時間を要した。
多種多様な鳥が男の周りをくるくる回りだした。まるで鳥の牢獄だ。
「うわー!」
男はなんとか鳥から逃げ出そうともがき参道を駆け下りていく。
儂も思わず、その脇の草叢に隠れながらその様子を追いかけた。
鳥は凄い勢いで男を追いかける。
否、追い立てるといった方が正確か。
十町行かないくらいで男は耐えきれず蹲った。鳥たちは相変わらず男の周りで渦を描く。
しばらくして鳥が静かになった。そして土を踏む音が坂の下から響いてくる。
菖蒲様だろうかーー。息を殺して様子を伺うと、違う。
菖蒲様と同じ、目の形をした紋様の入った羽織を着た女の人がこっちにやってきた。
蹲る男の前に立ち、ぞっとするほど冷たい声音で話しかける。
「お主はやってはならんことをした。」
「誰や、あんた。」
男は羽織の紋が見えないのか、怒りをにじませた声で彼女を威圧した。
しかし彼女は全く怯まない。
「やってはならんことだ。許されぬ。決まりを破りあまつさえ寺に忍び込み食糧に手をつけた。見ていたぞ、あの方は。決して貴様を許されない。」
単調な喋り方だ。
表情もほぼ変わらない。まるで人形。
「なんやお前?俺は盗みなんてしてへん!」
「見苦しい。」
淡々と男の言葉を否定する彼女に、思わず身震いした。
「貴様、あのお方の言葉を忘れたか。見られていないと思っていたか。あの方は見ている。全てを。貴様を入れて3人、既に決まりを破っておる。愚かだな。」
「んだ、おめえ!」
女の人に殴りかかろうと、彼が拳を振り上げた次の瞬間。彼は地面にひっくり返っとった。
儂も彼も、なにが起こったのか理解するのに一寸かかった。
彼女が彼の腕を捻って瞬く間に転ばせてしまったのだ。
「お前、なんや…。」
男はそこで初めて彼女の羽織に刻まれた菖蒲様の紋様に気がついたらしい。
「あ…。」
「いったであろう。見えておる。」
男はそこで観念して首を垂れた。
「そんなーー。道場入らんと親父にどやされる。」
「ならば修練を真面目に積んだ上でこの試練に挑めばよかったのだ。貴様の不真面目さが全ての要因よ。」
追い討ちをかけるようにそう言い放つ。男は歯を食いしばり悔しそうに彼女を睨むと参道を駆け下りていった。
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