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その夜になって、儂は落ち葉を布団に眠りについていた。
月が綺麗な夜やった。
ふと、何かの鼻をつく臭いで目が覚めた。
獣臭い。
何日も風呂に入っていない儂が言えた義理ではないが、強烈な獣臭さが漂っとった。
なんやろ。
なんとか気配を探ろうと眼を凝らして辺りを見回したが運悪く月が雲の陰に隠れて何も見えない真っ暗闇になってもうた。
視覚が遮られるとこうも人は自由が効かないのか。
耳を澄ませてみる。
何か聞こえる。ずっと先に、何かがいるのがわかる。
肌がピリピリと痺れる感覚がする。後ろや。儂の後ろになんかがおる。ゆっくりと振り返るがやはり何も見えない。
なんや。何がおる?
月にかかった雲がゆっくりとゆっくりとうごく。徐々に月光が大地を照らし出した。
その光の中で、大きな体躯を揺らしながらこちらに近寄る大きな牙を持った獣が見えた。
ーー猪。
それは体高一間三尺ほどの大きな雄の猪やった。季節柄、猪はもうすぐ繁殖期に入る頃や。其奴は、少し早めに繁殖期に入ったのかひどく興奮した様子やった。
儂の方をじっと見つめるその獣の姿に思わず腰を抜かした。
御剣家の近くには畑が少ないので猪など初めてみたのだ。
猪は気が立っている中、縄張りに現れた人間の子どもを見つけ、攻撃の対象としたようや。
前脚で地面を掻き、臨戦態勢に入る。そしてものすごい勢いでこちらに真っ直ぐ向かって走ってきた。猪突猛進とはよう言うたもんや。
あっという間にその毛並みがはっきり分かるところまで近寄ってきた。ああ、殺される。死ぬ。思わず眼を瞑った次の瞬間、何がが儂の体をぐいっと思い切り引っ張った。
猪は、さっきまで儂の居た場所を通り過ぎ勢い余って木に体をぶつけたようや。
こちらに向き直ろうとする猪に、儂の後ろにいた何がが飛びかかった。
暗くてよくわからんが、あれは鳥か何かや。真っ直ぐ音も立てず猪に飛んでいく。
そして猪は、その鳥のような影に追い立てられるように逃げていった。野太い声を山に響かせて。
なんやあれは。
思わず口があんぐりと開く。
何故あの鳥は儂を助けるような動きをしたのか。恐らくさっき儂を引っ張って猪の体当たりから逃したんもあいつやろう。
多分、あれは梟や。
梟が儂を助けるような動きをした。
それが何を意味するのか考える暇もなく、誰かの影が儂の視界を遮った。
ゆっくりと顔を上げると、真っ白い胴着が見えた。そして口元を布で覆った左右の目の色の違う女性が、儂を見下ろしていた。
「あ、あや、菖蒲様…。」
乾いてひび割れるような声が喉の奥から漏れ出る。
「…下山を私の遣いに命じさせたと記憶しておるが。」
こもった声に温度はない。
怒っているのか、ただ呆れているのか声音だけではわからない。顔色を伺おうにもほとんど隠されていて意味がない。
「お前はそれを蹴った。そして5日を生き延びた。立派なことだ。
しかしお主はまだ山中におる。
何故だ?私が命じたのは5日の山籠り。何故貴様はまだ下山せぬ?
あまつ、獣道に寝そべって己が身を危険に晒した。何故だ。」
「えっと。」
何か言わねばと焦れば焦るほど、喉は乾いて言葉がつかえる。
菖蒲様はそんな儂の腕をむんずと掴んだ。
「下山せよ。これ以上はお主の命に関わる。」
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