第九幕

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「袂さんは誰が菖蒲なのか実は知らないのかも知れませんね。」 『だとすれば俺たちに意地悪してるだけってことだな。可能性がないわけではないが…。』  その時だった。何かガサガサと紙を触るような音がした。 「うん?爽矢さんなんか書類かなんか触ってます?」 『いや?何でだ?』 「なんか、がさがさって音が…。」  もう一度音がした。でもそれは、この耳につけた受話器から聞こえたのではない。  後ろを振り返る。そこにはただ闇が広がるばかりだ。でも間違いない。後ろから何かの音がする。何か生き物がこっちに近づく音が。  何か生き物の気配だ。試しに声をかけたが返答はない。 『おい、高天。大丈夫か?』 「…。」  なんだろう。最初に頭をよぎったのはクロコダイルだった。あの人を襲ったというワニ。でも確か捕獲されたというし、まさか…。 『おい。大丈夫かよ?』 「わかんないです。なんか生き物がいる気がするんですが。」 『今そっちも夜だろう。海外の夜は治安が悪いしな。ともかくもう部屋に帰れ。袂のことはもう仕方ない無理はしなくていい。こっちでもやれることを検討するから。』  切電し、さっき音がしたほうをにらみながらじりじりと動く。さっきの動く音はもう聞こえなくなったが、それでも何かがいるという気配は感じた。  唾を飲み込むとその音と同時に、ぺたりと湿った足音がした。  クロコダイルか?本当に?  訪豪の前にこの国で気を付ける危険なものを学ぶ時間が与えられた。その時にクロコダイルの話は散々聞かされた。  でもまさかーーまさか。きっとネズミとか野良犬だ。そう自分を落ち着けて注意深くホテルに戻ろうとしたときだった。 「フウー、グルル。」  低い獣のうめき声だ。犬?否、もっと低い声だ。まるで熊のような。  ワニじゃないのか? ――早く、早くホテルに戻らなければ。  ヒタヒタと足音が近づく。こういう時は急に動いちゃいけないとどこかで聞いたことがあるけど、そんなことができる心の余裕は足音が近づくにつれてしぼんでいく。  次の瞬間だった。街灯に虫が当たって、バチというはじける音の後、数秒間暗闇が僕の周りを支配した。虫が電気にあたって焦げたにおいがする。  その匂いに細めた目が捉えたのは真っ赤な二つの光だった。  丸い光が二つ横に並んでいる――生き物の目だ。本能がそう告げた。  反射的に動いていた。二つの光に背を向けて。 「ウー!!」  後ろから低いうなり声が追いかけてくる。  なんだ?なんなんだ?  何か固いものが道路をひっかく音、風を切る音。荒い息遣い。やばいやばいやばい!!  死ぬ、死んでしまう。  すごい勢いで自分に迫ってくる死――その時耳元で誰かのささやきが聞こえた。 ――思いのままに命じればよい。貴様にはその力がある。  そしてその声に誘われるように自然と口から言葉が出ていた。 「やめろ!!動くな!」  途端、音がやんだ。  その隙に走る。数歩進んだところで消えた街灯が再び光を取り戻すのが分かったが、歩は止めずホテルの光に向かってただ走る。  ホテルの扉を開けたところで初めて後ろを振り返る。じっと闇をにらむがもうあの赤い光は見えない。  目を凝らすがそこには闇しかない。そっと扉を閉める。でもやはり外の様子が気になってわずかに扉をまた開けた。その時勢いよく室内に入り込んできた風と一緒に、ギャッという短い悲鳴と鈍いドスンという音とが聞こえた気がした。でもやはり何も見えない。ドクンドクンと鳴る自分の鼓動の音が邪魔してそれ以上は何もわからなかった。
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