第1章

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昨年 梶田教授のニュートリノ研究がノーベル物理学賞を受賞されたが、  僕のような、素人にとって、 宇宙の謎は、突き詰めれば、「有」と「無」の問題になると思う 「無」は、有るのか?という「究極の禅問答」だ。 僕が、今朝目を覚ました時、最初に目にしたのは、頭上の天井だったが、それは、天井の存在を確実に保障する訳では無い。別に台に乗って、触れて確認してみたわけではない。  今朝、僕に起きた事は、天井という物質が僕の視神経を刺激し、視覚情報か、脳に入力されただけである その時そこに確かに存在したのは、「天井が、見えた」という「視覚情報」だけである 我々は、日頃、「目に見えないもの」の存在は、信じ無くとも、「見えるもの」の存在は疑わない。 「見えるか、どうか」は、存在の有無にとってそんなに大事な事だろうかか? たとば、僕が突然、神経の疾患で全知覚 情報か脳に届かなくなってしまったら、 それでも世界は、依然、存在しているのだろうか? 上記の疾患の為、私には、それを確認する術は無いが、 それでも尚,存在するなら、その根拠は、私にだけは、無い事になる。 疾患者が僕だけなら、「それまで通り世界を認識できる者」と「疾患によりそれができない私」との多数決で世界の有り様は、民主的に決まるのだろうか? ニュートリノ」は教授の研究以前長い間、質量が「無い」とされていたそうだが、 「無い」が研究成果や、受賞での注目の結果「有る」に変わってしまうのは、「存在」とは、結局、「認識」の問題なのだろうか? 「認知」されなくても、「存在」は有る?本当に?
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