お世継ぎ騒動

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その日泊まりがけで羽柴家へ出向いていた光太郎には、 煕子が熱にうなされていることを知る由もなかった。 そして光太郎の代わりに煕子の看病をしていたのが椿だった。 「具合はいかがですか?」 「ええ…ごめんなさいね、要らぬ世話を焼かせてしまって」 「光秀様の大切な奥方様ですから。 何の心配もせず休んでいてください。 …それにしても、このような時に よりにもよって光秀様はあの馬鹿猿の所へ遠征中だなんてーーー」 「馬鹿猿?」 煕子が聞き返したことで、椿は慌てて言った。 「あ!すみません、私ったら…気をつけているのですがあの者のことを考えるとつい口が悪くなってしまい」 「あの者とは、羽柴の…秀吉様のこと?」 「はい。 猿とは昔からの腐れ縁のようなもので。 故郷では猿山の雄雌大将などと呼ばれ 二人でよく村の者たちに悪戯をして遊んだりしていたのですが… いつのまにかあの猿だけ人間に出世してしまって」 椿の言い様に煕子はくすりと笑った。 「随分と仲が良いのね。 …私にはそのような心許せる相手がいないから羨ましい」 「ええっ! 煕子様に羨ましいなどと言われるのは恐れ多いです…。 私こそ煕子様のように容姿端麗で教養のある方に憧れております」 「私は…自分がやりたくてやったことなど一つもなかった。 稽古事も作法の勉強も、嫁に行く為だけに仕込まれたこと。 でもーーー」 煕子は顔を曇らせた。 「…光秀様とうまくいっていないのですか?」 椿が恐る恐る尋ねると、煕子はこくりと小さく頷いた。 「私はこれまで何の為に生きてきたのでしょう。 光秀様に全てを捧げるつもりで参りましたが、それも未だ叶わず…」 煕子の言葉に、今度は椿が顔を歪ませた。 そして椿は思わず本音をぽつりと漏らした。 「…でしたら、私が光秀様と…」 思わず出た言葉に、椿は慌てて口を塞いだ。 ーーーだが、椿の気持ちは薄々煕子も気がついていた。 もしかすると、私などより椿殿との方が光秀様は幸せになれるのかもしれない… 「…光秀様には椿殿のほうがお似合いかもしれませんね」 悲しそうな表情で微笑む煕子を見て、椿は自分の漏らした言葉を悔いた。
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