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『母さんが…女優を…』
全く知らなかった。
『まあ、それが言いたくてな…』
熱燗をチビりと口に運ぶ親父の目が、少し潤んで見えた。
『役者も、観てもらう人に深々と頭を下げる商売だ。良い演技をして、誇りを持って頭を下げなさい』
『なら…俺は…』
『お前の人生だ。縛られることは何もない。恥ずかしくない生き方だけを、心掛るんだ。それとな…』
親父が言葉に詰まった。
『それと…なに?』
自然と言葉を準えた。
『たまには母さんに電話でもしてやれ。淋しがってるぞ』
気がつくと、自分の目にも涙が滲んできていた。
『親父、俺のハイツ、すぐそこなんだ。今日は泊まっていかないか。部屋で飲もうよ』
『いいや、国会に陳情に来たついでに寄ったんだ。皆に黙って出てきたから心配してるだろう。ホテルに帰るよ。それよりも、母さんに電話しろよ』
『わかった。今晩かけるよ』
『そうか。それで安心して帰ることができる。じゃあ、元気で頑張れ。電話の次は一度帰ってきなさい。そのときは、ゆっくり飲もう』
『じゃあ、勘当は…?』
『でなきゃ、ここには来ない』
そう言って勘定を済ませると、親父は一人で闇の中へ消えて行った。
不思議な時間だった。呆気なく勘当が解かれ、将来の選択肢も自由になった。まさかこんな日がやって来るなんて…予想もしていなかったから。
ただただ面食らったままで、親父の背を見送っていた。
『あ、姉さん。俺だよ、貴浩』
嫁いだはずの姉が、電話に出たことが
不思議だったのに…もっと不思議なことを聞かされた。
『お、親父が死んだ?いつ……今朝』
そんなバカな!
たった今、表の屋台で…
カーテンを開けると、屋台はすっかり消えていた。
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