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その日の仕事は、確かにいつも通りだった。
いつも通り、出社したらパソコンを開いて、ログインして、出社処理をする。スケジューラーを開いて、午後一でアポがあることを確認。午前はデスクワークに勤しんだ。
背後でバタバタとする様子を、とりわけ気にすることもしなかった。バッグの中で震えた携帯も、わざと無視した。午前は、とにかく顧客リストの更新で忙しかった。
だから、背後の橋本さんの存在には気付けなかった。
「やっぱり、女ってこわーい」
本人に聞こえている時点で陰口ではないのにと、心の中で悪態をついてみせた。
「自分のことだって、自覚もないんだから」
少しずつ、体の中がジリジリしてきた。ただの、予感。だから、当たる確率だって限られている。
「今頃、次長がどうしてるのかも知らないんだ」
「あ」
右手の中指が、ちょうどバックスペースキーを押していた。思わず、番地を全消去してしまった。リターンキーを押したところで、課長があたしの名前を呼ぶ。
「今日のアポ、行かなくていいから」
「え?」
「崎戸商事さん、引き継いでおいてね。平井さんに」
「課長…あの、」
「加賀」
血走った目が、焦点を失っていた。あたしを傷付けまいと、必死なことだけはしっかりと伝わった。時に目は、言葉よりも真実を克明に物語る。
あたしは会釈をして、入口左手のロッカーを開ける。上から三段目に仕舞われた早退届に記入して、メッセージカードを添えた。主任へのお伺いはせず、課長に突きつけた。
いつも歩いている廊下は、やはり長く感じられた。
仕事の引き継ぎ、親への報告、転職先、もしかしたら、引っ越し。考えなければならないことは、たくさんあった。それでもきっと、全部解決することはわかっている。
何ヵ月か後には、こうして涙を流したことも綺麗に忘れて、次の職場でも笑っている。
家族だって、友達だって、あたしは、周りの人に恵まれ過ぎている。
生きにくいなんて、決して思わない。
そんな人生が、あたしには、とても甘くて、とてもぬるかった。
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