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心臓が、抉られる。
そんな感覚だった。
経験したことがないから、正しくは、そんな感覚“かもしれない”。
お母さんは、全部わかっていた。
涙が出てくる前に、お母さんは電話を切った。
“好きなだけ泣きなさい”
そう、言われたようだった。
翌日、気怠い体を引きずりながら、出社した。
始業三分前に課のドアを開ければ、真里はこちらを二度見してから慌て始め、課内の人間は目を丸くする。
真っ赤に腫れた左目を覆うため、眼帯をし、すっぴんを隠したくてマスクを着用。
髪はボサボサ。露出した右目は虚ろ。息は荒い。
そして朝、右手の人差し指と小指のネイルが剥がれてしまった。
「お願い、今すぐ帰って!タクシー呼ぶから!」
真里の申し出に、一同が無言のまま首を縦に振る。
「こんなみすぼらしいあんた、初めて見たよ!」
「…ちょっと…傷付く…」
「あんた一人いなくても、仕事は回るんだからね!」
捉え方が悪ければ憎まれ口にもなるその言葉を聞いて、あたしは無言のまま踵を返す。欠勤届とか、仕事の引継ぎとか、正直頭が回らなかった。
「あ、PCのパスワードは、」
「知ってるわ!早く帰れ!」
それ、どうなの。
言い返す気力もなく、おめおめと歩みを進める。
ふと前方に捕えたその姿は、時代が違えばやはり王子様にも見える。
持ってる男は、やっぱり違う。
「加賀、どうしたの」
「…帰ります」
「風邪か?目、どうした?」
「満身創痍です、とりあえず」
淡々と受け答えできるあたり、自分でもそれほど弱っていないんじゃないかと思う。
「今から課長と移動だけど、送ろうか?」
「いえ、お気持ちだけ…ありがとうございます」
顔を見ることは、しなかった。目を合わせたら、全部見透かされそうな気がして。
怖くて、下を向いていた。
「無事に帰ったら、連絡くれ。メールでもいいから。頼む」
下から覗き込まれると、目を合わせるしかなくなる。
この人は、ズルい。
心配してくれている。
それだけは、痛いほどよくわかった。
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