ある春の日のこと。*

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「春名さんって、もともと俺のこと知ってたのか?」 「え? 春……優子さんがですか?」  宰は目許から額へと腕をずらし、優駿の顔を見た。 「だって今朝……俺のこと、名前聞いただけで『ああ、あなたが』って」 「あぁ、それは……」  優駿は合点がいったように頷くと、記憶を辿るように話し始めた。 「俺がバイトし始めたときに、何があったのって聞かれたことがあって――優子さんは、もともと親族の中でもバイトには賛成してくれてたんですけど。……で、親身になって色々教えてくれた人がいてって話を……」 「……ああ、なんだ」  その内容は、宰が予想したものとは違っていた。  宰の予想は、どうせまた不用意なことを言ったのだろうと、ある意味辟易するものだった。  それがまったくの邪推だったと分かり、拍子抜けしたみたいに力が抜けた。  と同時に後ろめたいような気分にもなり、宰は優駿から目を逸らし、どことない中空に視線を投げた。 「どうしてですか?」 「いや……なんでもない」  不思議そうな顔をする優駿に、独りごちるように言って、緩慢に瞬く。 (ほんとに独りでぐるぐるしてたんだな、俺……)  思い出された柏尾の言葉と相俟って、いっそう自分がばかみたいに思えた。 (――にしても……ほんと豪華な部屋だよな)  ややして、今更ながらも視線を一望させると、床の間に飾られた小振りな陶器が目に入った。  細やかな彫刻がなされた台座の上に、シンプルながらも、品のある茶器が置かれていた。その美しさに、無意識に感嘆の息が漏れる。部屋の名にちなんだのか、清楚な白を基調とし、繊細で淡い桜の花があしらわれたそれは、日頃あまり芸術的な分野に触れることがない宰でも、素直に「いいな」とこぼしてしまうほどのものだった。
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