ある春の日のこと。*

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「あ、それなんですけどっ……」 「……なんだよ」 「宰さんはよくそう言うけど、例えば俺の名前がなんで“優駿”なのかとか、聞いたら絶対、案外普通じゃんって思うと思うんです」 「は……? え? いきなり何の話――…」  宰が胡乱げに目を細めると、優駿は身を乗り出すようにして言った。 「父が大の競馬ファンだからなんです! 知ってます? 優駿の意味。元々は特に優秀な競走馬って意味です。父がはっきり言ったんです。競馬用語から取ったって。 ね? これって全然普通でしょ?」 「競馬ファン……」  “優駿”という言葉の意味には、単に“優れている”という意味もあったはずだ。しかし、父親がはっきりそう口にしたなら、名前の由来自体はそれが本当なのだろう。そういうことなら、確かに親近感もわくかもしれない。  宰は競馬はやらないが、知人にも競馬好きは何人かいる。行きずりで関係を持った相手が、ただ見ているだけでも熱くなれると語ってくれたこともあった。  それからしても、さほど珍しくもない趣味だ。そこから名前を考えたと言われれば、 (まぁ、普通って言えば普通……か?)  と、思えなくもない。 (でもなぁ……。まぁ、いいけど)  宰は顔を覆っていた手をずらし、ちらと優駿の顔を見た。  優駿があまりに必死に言い募るから、絆されてしまっただけかもしれない。それでも、実際いくらかは気が楽になった感もあり――。  なのに、 「馬が好きなのか? それとも賭け事?」  それならと気を取り直して尋ねた宰に、優駿は笑顔でこう答えた。 「えっと、今はどっちも、かな。もともとは純粋に馬が好きで始めたことだったらしいんですけど……今では何頭かのオーナーにもなってて。だから結構自分の馬には注ぎ込んでるみたいです」 (オーナー…!)  その瞬間、宰の中で全てが振り出しに戻った。 (やっぱり世界が違うじゃねぇかっ……)  単なる競馬好きは知り合いにいても、馬主の知り合いなんて宰にはいない。  宰はふたたび絶句して、もう何も考えたくないとばかりに目を閉じた。
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