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「あっ、いた!」
お世辞にも静かだとは言えない店内に、聞き慣れた声が響く。次いでガタンと倒れる椅子の音。心なしか、周囲に展示されている目新しい携帯の位置がずれたような気さえする。
店内奥の休憩室から、出入り口にほど近い携帯コーナーへと戻ってきた美鳥宰(みどりつかさ)は、まるで指定席のようにカウンター端を陣取っている一人の青年の姿に溜息をついた。
「お帰りなさい、美鳥さん。今ね、薫(かおる)さんにコーヒー頂いてたとこなんです」
「完全なひやかしに接待は必要ないですよ、薫さん」
青年の言葉には直接答えず、宰はひとまず床に倒れていた椅子を片手で起こす。次いでカウンター内の女性に目を遣ると、彼女は「まぁ暇だったから」と控え目に苦笑した。
「あなたも用がないなら毎日来ない。いい加減入店禁止にしてもらいましょうか」
宰が椅子を起こしても、青年はそこに座らない。どころか、それだけでも直接話しかけられたのが嬉しいみたいに、にこにこと宰の傍に擦り寄ってくる。まるで人懐こい犬のように。
シンプルなグラフィックTシャツとジーンズを、地味にならないよう着こなして、無造作ながらも丁寧にセットされた短髪を、それこそ犬耳のように揺らしながら――。
「美鳥さん、何だか甘い匂いがする」
「ここは喫茶店ではないんですよ」
「今日はお昼、何食べたんですか?」
「人の話を聞きなさい」
宰は他方の手に持っていたファイルケースで、その頭を軽く叩いた。
仮にも客に店員がその態度はないだろうと言われそうだが、宰の彼に対する態度など最近では総じてこんな調子だった。
「美鳥さん、今夜御飯とか一緒にどうですか? 俺奢りますっ」
「残念ですが、既に先約がありますので」
挙句、さらりと嘘を返しながら、宰は容赦なく青年を置き去りにする。カウンター内の定位置に着くと、持っていたファイルをパラパラと開いた。敢えて青年との隔たりにするよう顔前に掲げ、その後は視線すら向けようとしない。
「ねぇねぇ、もう少しここにいていいですか? いいですよね、今は他にお客さんもいないし……」
それでも青年は笑っていた。まるで懲りた風もなく、むしろそんなやりとりですら構ってもらえるだけ幸せだと言わんばかりに、無邪気に頬を緩めている。
青年は改めて椅子に座った。残っていたアイスコーヒーのグラスにいそいそと口をつけた。
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