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エスカレーターを降りていく短髪の頭を、宰は律儀に見送ったりはしなかった。ただ、位置的に視界の端に入るその姿を、見るともなしに意識していただけ。
優駿は柄にもなくすっかりしょげ返っていたようだったが、それでも懲りずに何度も宰を振り返っていた。
そうして完全に優駿の姿が見えなくなってから、宰は改めて息をついた。
――何だか少し後味が悪い。
思うものの、ともかくこれで一息つけるのも確かだと、気を取り直して手の中のファイルへと目を戻す。
「あれ、今日は早いね。もう帰ったの、小泉君」
なのにそこでまた新たな邪魔が入る。今度の声は、まるで隙を突くように背後に近い位置から降ってきた。宰は思わず片手で顔を覆う。
「あら柏尾チーフ、お疲れ様です」
「ああ、うん。お疲れ様」
そんな宰の反応を余所に、薫が愛想の良い笑みを浮かべて目礼をする。柏尾チーフと呼ばれた男は、普段と同じ緩い雰囲気で、片眉と口端だけを僅かに引き上げた。
「……チーフ」
声になるかならないかの音量で呟き、一拍置いてから宰も振り返る。宰よりも十センチ近く長身である柏尾の顔を、胡乱げに見上げた。仄かに煙草の香りが鼻先を掠める。
(禁煙してるんじゃなかったのかよ)
思ったが、それは敢えて口には出さず、
「何か急用ですか」
短く問いかけると、手の中のファイルを一旦閉じた。
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