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出勤日だ。
朝になったら始発で一旦家に帰らないといけなかった。
先にベッドから抜け出ていた木嶋さんの背中に、恐る恐るおはようございますと声をかける。
「おー。何か昨日は飲みすぎたな」
何事もなかったように、上司の顔をして彼は言った。
「急げよー、遅刻すんなよ」
「木嶋さんこそ。帰って仮眠したらまたアウトですからね」
「なー、ほんとひでぇ上司だな」
「オール明けに仮眠取って寝坊して遅刻とか、マジ社会人としてあり得ないですよ」
忘れろ。
忘れたことにしてやる。
その言葉通り、あの時間は、なかったことに。
「先に出ますよ、マジ間に合わない」
おう、という返事を背中に聞きながら、ドアを開ける。
何にも、なかったことに。
今まで通りに。
「なあ」
「――え?」
「八年経ったら、思い出せよ」
――八年。
今日この日のことを忘れる日なんか、あるのだろうか。
「私、遅刻しませんよ」
「そーか。いつも早いもんなお前」
巻きで行きます、とは言えない。
もしも今が冬じゃなければ、こんなことにはなり得なかったかもしれないのに。
明日の自分が振り返ったら、何馬鹿なことしてんだと呆れるかもしれないのに。
そんな不確実な口約束など、交わすことは出来なかった。
――でも、多分、きっと。
私がそう思っていることも、もしかしたら木嶋さんには、透けて見えていたのかもしれない。
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