第1章

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わかっていたとしたら、それは無意識ではない。 では何故、彼は僕に左利きかと尋ねたのか。 今感じている、左腕全体を覆うこの漠然とした違和感はなんだ。 そのむかし、彼女と約束を交わした時に感じていたあの腕の激痛が、忘れかけていたあの激痛が、今まさに襲って来ているかのようだった。 あの腕の、激痛。 僕はナイフを左手で握り、今度は右の掌を開いた。 鋭利な先端を掌の皮膚に軽く押しあて、少しだけ力を入れると、そのまま横にスライドさせる。 出来上がった一文字の傷口は、ほんの少し力を加えただけなのに、綺麗に切れた。確かな痛みを感じる。 彼女の優しい声が、何度も何度も頭の中で繰り返された。 こちらへ近付いて来る複数の足音さえも、掻き消すくらいに。 「おや、主任。何をなさっているのです」 同じ白衣を身に纏った部下が、僕の前方より声をかける。 その驚いたような表情も、感情回路を辿ったプログラムが操作しているのだ。 「ナイフなんか持って、どうしたんです。もしかしてまだ、廃棄処分が終わっていないのですか」 別の部下が喋った。 でも僕にはそれらが、プログラムされた適切な応答、としか捉えらることが出来なかった。 これは会話ではない。【人間】は機械だ。人を殺した。 「ワタシが動かなくなっても、必ず生き延びて下さいね。約束ですよ」 名前も思い出せない、大好きなあの【人間】よ。 これからの僕は、あなたとの約束を、生き延びるという約束を果たすことが出来るのだろうか。 あなたの名前も、僕の家族も、そしてこの機械となった左腕のことも、全てを思い出すには時間がかかりそうだ。 この【人間】の世界で、人として、僕は生き延びることは出来るのだろうか。 右掌の傷口から赤い血液が滲み上がり、それが一筋の線となって右腕を伝った時、僕は確かに、自分の鼓動を感じた。 【人間】のふりをして生き延びるのではなく、人として生き延びる。 それが幼い頃に交わした、彼女との最後の約束だった。
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