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そして、目下、その気になる存在を占拠している冴えない上司の手から奪い去りたくて仕方がない。
自分のことは、それなりに空気を読んで、なんとなく卒なく立ちまわる性分だと思っていた。
でも、存外、本能に正直な一面も持っていたらしい。
俺は、高圧の車内をハンズアップで移動し、重なるふたりの傍へ移動する。
すると、待ちわびた救助の手を取るように、色白の男が俺の腕を掴んできた。
「……あ……の…………っ」
時代遅れのコートの中で一突きに身体を繋げられた男が、縋るような目で俺を見る。
俺は瞬間、その熱を孕んだ目に息を呑んだ。
でもしまった。ここへ来るの遅かった。
「ひぃ……っ、あぁっ!」
差し掛かったカーブで、車内が片方へ吸い込まれる。
外側への重力によって、すし詰めの車内が揺すぶられ、男の繋がった場所を深く抉った。
色白の男は、予想通り堪えきれず、あられのない声を上げた。
「くっそ……っ!」
たちどころに嫉妬のような怒りが込み上げ、上司を見る。上司は涼しい顔で、少しだけ口角を上げて見せた。
あてどない怒りが瞬間にして沸点に達するが、今はそれどころではない。
ただでさえ人混みの中、周囲にバレていないだけ奇跡という状況で、さすがに悦を孕んだ喘ぎ声はまずかった。
息もかかるような距離にいる人間たちが異質な悲鳴に気がつかないわけがなく、声の主を探して多くの視線が向けられる。
俺は、とっさに色白の男を視線からかばうようにトレンチコートの中から連れ出し、そこへタイミングよく列車が停車駅に着き、扉の隙間を縫うように、男の手を引いてホームを駆け出した。
俺の下車駅は次の次だが今は構わない。
とりあえず今は走る。人混みに紛れてしまえば、一瞬の嬌声なんて今に、空耳に変わるだろう。
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