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「光、私ね、結婚するの。……光、ごめんね」
当時バスケ部だった私が、3年生の引退試合を終わらせ1週間ぶりに家に戻ると、小枝ちゃんは旅行用のバッグを下げたまま私を出迎え、そう言った。
彼女が私に残してくれたモノは、この部屋の権利書と、私名義の何通かの貯金通帳。
『何かあったらここに連絡して』と書かれたメモと、弁護士事務所の名刺一枚。
小枝ちゃんが私と入れ替わるように玄関を開けた時、いつもなら気にも留めないセミの鳴き声が、やたら大音響で耳をつんざいた。
事務的な口調で、権利書や通帳の説明をする小枝ちゃんの顔をぼんやり眺める。
『嘘だよ。旅行に行くだけよ』
笑ってそう言ってくれるんじゃないか、って……、どこかで期待していた私はすぐに返事が出来なかった。
玄関で彼女を見送った後の記憶がない。
気が付いたときには、真っ暗な玄関で……、一人……立ちすくんでいた。
小枝ちゃんの私物が全てなくなっていることに気が付いたのは、翌日のことだ。
それを見てもまだ現実感が沸かず、しばらくは、もしかしたら突然出迎えてくれるんじゃないか……って。
まだどこかで期待している自分がいて、毎日部屋の扉を開けるのが怖かった。
誰もいない部屋の扉を開ける。その度に落胆する。
落胆する自分に嫌気がさす。その度に諦めきれない自分を叱咤した。
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