深大寺でのこと

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 真偽のほどは定かではないが、父は浮気をしたことがある。  それがバレて親戚友人四方八方から、わいのわいの、と責め立てられて懲りたようで、その後浮気の話は聞かないが、母にはそれが微塵もない。  もっとも母に対する男の人の熱い視線をわたしが感じなかったわけではない。  いつだったか電車に乗って千葉県富津の親戚の家を訪ねたとき、母に向けられた年配の男の視線があからさまで、その手のことには疎かったわたしにさえ、とても穢いもののように感じられたからだ。  男の視線に気づくと母は前にも増して表情を硬くしてしまったので、わたしも一層居心地を悪くする。  約十分ほどして止まった駅から車両に乗って来て、母とわたしと同じシートに座った体格の勝れた小母さんがそんな男の視線に気づいて一括してくれなければ、もしかしたら年配の男はわたしと母が電車を降りる駅まで母のことを熟視していたかもしれない。  母にだって男の人の知り合いがいないわけではなかろうが、少なくともわたしの知る限り、母が男の人と二人で出かけたことは一度もない。  そもそも母が近所の小母さんたちとご近所観光するようになったのもここ数年の話で、それ以前はわたしが中学に入るくらいまでパートをしていた時期を除けば、基本的には家庭内にいる主婦なのだ。わたしが生まれる前のことは知らないが、父と結婚してわたしがこの世に出(いず)る二年ほどの期間に運命的な出会いがあったというのだろうか。  わたしが咄嗟に運命的と感じてしまったのは、それまでわたしが見たことのない母の表情を垣間見てしまったからだ。  わたしにとって母は毅然とした女といえる。  父と喧嘩をして悔し涙を見せることはあっても決してヒステリーを起こさない。  夫という男族にしてみれば、それは却って怖い女の反応なのかもしれないが、とにかく母はそういう人間だ。  毅然で更に硬いのだ。  幼い頃に絵本で寝かし付けられるときに聞いた母の声はただ冷たくて、幼いわたしにさえ感情が欠けているように思わせたほどだ。決して嫌々ではないのだが、愉しむという気配がどこにもなく、わたしには母が単に義務を遂行しているだけとしか感じられない。  妹に対しては綻びた表情を見せることがある母だったが、それでもどこかに硬さが残る。少なくとも、わたしにそう感じさせる程度には……。
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