第1章

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 呼び止められて、振り返るとそこには「死にたい」と泣き崩れる妻の姿があった。  僕の人生は妻である幸恵がこうなる前を除けば、おおむね幸せだったといえる。大学時代から付き合っていた幸恵は無邪気で社会に出るのはどこか素直すぎた性格をしていた。 野に咲く花ではなく、温室に置いて愛でたい花であった。  幸恵を守るのは当然の義務であるという錯覚を覚えていたのかもしれない。  二人で卒論を書きに大学の図書館に来たときなんかは今でも笑えた。  「ねえ、優也。わたし、ユング派の精神分析をテーマにして、書いてるんだけど、飽きてきちゃった。どうして、人間ってこんなにも複雑なんだろうね」  幸恵はそれを題材にした気持ちをすっかりすり減らしていたようだった。  だけども僕は社会経済論の正当性と妥当な論証の反論に徹していたものだから、少し心がすさんでいた。 「そうだね。幸恵みたいに悩み知らずだったら、世界は平和で堕落していって旧石器時代にもどれるというのにな」 「そうだよ、みんな旧石器時代にもどればいいんだよ」  皮肉でいったつもりなのに、この温室体質のひまわりの花はにっこりほほ笑む。
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