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「あのね」
しばらく黙っていた遙が口を開いた。薫が顔を上げると、そこにはいつものように涼しげな遙の顔があった。
「僕あと半年なんだって」
遙の言葉の意味がわからず首を傾げると、遙はさらに続けた。
「2年生になれないんだってさ」
薫はやはりわけがわからない。遙はまたくすりと笑うと、今度はまっすぐ薫を見て言った。
「僕の余命はあと半年だ」
「・・・え?」
「だから、薫と過ごす夏休みも今年が最後だね」
何の冗談、と薫が言いかけたとき、ちょうどコーヒーが運ばれてきた。遙は静かにコーヒーをすすった。
「美味しい。・・・あのね、一度ここに薫を連れて来たかったんだ」
うつむいていた薫に、遙は静かに話しだした。予後不良の病気で余命が半年であること。自分のことは忘れてくれて構わないこと。そして、この店のコーヒーが大好きなこと。
「あのね、大好きな人には笑っててほしいから。だから、僕のことを忘れてくれて構わない」
最後に遙はそう付け加えた。すでに涙でぐしゃぐしゃになった顔を遙に見られたくなくて、薫はうつむいたままやっと一言絞り出した。
「じゃあなんで、・・・なんでここに私を連れて来たかったの」
「・・・ひとつだけでいいから、僕の好きなものを薫に覚えていて欲しいんだ」
ついさっき自分のことを忘れていいと言った遙の口から発せられた願いは、薫には矛盾しているとしか思えなかった。
「おかしいよ・・・」
「うん。だからね、僕が死んだらこの店のことも、コーヒーのことも忘れてくれて構わない」
「・・・なんで」
「生きてる間くらいはね、自分の好きなもの覚えていたいから」
そうしてまた遙はとつとつと語った。自分の病気はとてつもない速さで記憶を奪って行くのだと。いつかそう遠くないうちに、好きな場所も食べ物も、大切な家族のことも、そして薫のこともきっと忘れてしまう。
「あのね、僕は薫のことだけは忘れたくない。だから、もうひとつだけお願い。僕が生きてる間だけは、どうか僕に薫を思い出させて。・・・毎日じゃなくていいから、僕が忘れてしまう前に・・・会いに来て」
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