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夏の十勝平野は涼しい。空港からのバスを降りて帯広駅前に立った茜を8月とは思えない風が包み込む。事前に天気予報で気温を見てはいたが、いくらなんでもここまで涼しいとは思わなかった。パーカーを持って行った方が良いよ、という旭のアドバイスが耳にこだました。茜はパーカーを羽織ると、駅周辺に広がる市街地へ歩き出した。
地図を見つつしばらく歩くと、その店はすんなりと見つかった。旭が全力でお薦めしたカレー店。中に入ると意外と広く、店の真ん中の調理場で腕を振るう店員がよく見えた。最初に行くなら王道の「インデアン」を注文するといいよ、という旭の言葉に従って茜はカレーを注文した。
旭が育った町に、今自分がいる。温かいカレーを食べながら茜は何故だか泣きそうになっていた。涙のわけもわからず食べ終えると、次の目的地へ向けてすぐに歩き出した。
「前は一目でわかるオブジェが建っていたんだけど、いつ頃か撤去しちゃったんだ。だからちょっとわかりにくいかも」
少し心配そうに話した旭が目に浮かぶ。帯広で育った旭にとって、帯広発祥の菓子店は大好きなものの一つだった。たしかにちょっと迷ってから茜は店に辿り着いた。本店でしか買えないというコロネを買って、まず一口食べてみる。溢れんばかりに詰められたクリームとパイ生地が口の中でとろけていく。
「美味しいね・・・」
茜のつぶやきに、でしょ、と旭が得意げに笑うのが見えた気がした。旭が特に大好きだという土鍋型の最中を買って、茜は店を出た。
ーさて。次に向かうところが一番の、そして最後の目的地だ。駅前に戻ってバスに乗る。流れていく景色を見ながら茜は旭の言葉を思い返していた。
「大学の中にある池の畔に埋めてきてほしいんだ」
そう言って旭は茜にコスモスの種を渡した。この時期に埋めて咲くの?と茜が聞くと、旭は困ったように笑って言った。
「咲かないかも。でも、いいんだよ。あそこに戻れたらそれで」
僕も一緒に行けたらよかった、と寂しそうに笑ってから、旭は茜を見ていった。
「僕は戻れないから、せめてそれだけでも戻してほしい」
初めて行く十勝は絶対に旭と一緒だと思っていた頃が遠い昔のようだった。今はもう、叶わない。
バスを降りて大学構内に足を踏み入れると、牧草と堆肥の匂いに包まれた。
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