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「……まあとにかく、悩みとか、愚痴とかね? 聞いてあげられるのはまだ、息子の俺しかいないし」
兄の、そう言いながら流しに白いカップを置くテキパキとした動き、手慣れた様子で、少しだけたまっていた洗い物をついでに始めてしまうのを、私はただ眺めていてしまった。
「それも」
「えっ……」
「そっちも洗っちゃうからくれ」
「……あ、うん、ごちそうさま」
流しの水の音をこんなにちゃんと聞いたのは初めてかも知れない。それきり口を開かなくなってしまった兄を手伝うわけにもいかず、またソファに座りなおすと、残っていた暖かみがじんわりと下半身にひろがる。
カチャリ、カチャリと食器の一つ一つが洗い終わったという声をあげて、水の滴るのもやけに大きく聞こえて、じっとしていたくなって、けれど最後に蛇口がひねられて水の流れるのが止まると、私は自分でもよくわかるくらいに安心していた。「今日、お父さんは来なかったんだね」
「いや、来れるわけないだろ、そりゃ」
「なんで?」
「なんでって……言ったろ? もう昔とは見た目が違うし、母さんに遠慮してるみたいだし、ま、あんだけ派手にやったらって感じだけど」
「でも、お兄ちゃんは別に、普通に会ってる」
「……なに、母さんと仲直りさせたいの?」
「そういうんじゃないけどさ……」
何気なくテレビをつけた時にお父さんが映ってたらショックを受けるだろうと思っただけだった。そんなに見る人じゃないけど、もしもの事があったら、なんてふと考えた。
「大丈夫、誰だか分かんないから」
「そんなに違うのかあ」
時計を見るとまだ三十分くらいしか経っていなくて、外も明るいままだし、近所から夕ご飯の匂いが漂ってくることもない。
「――これ、入れとくから」
「あ、うん、ありがと」
パタパタ、バタン。いつもよりも勢いよく開けられて、閉められる冷蔵庫。お兄ちゃんはそのままリビングを大またで歩き回って、今度こそ遠慮なさげに、確かに元々住んでいたところだから良いのかも知れないけど、部屋を見回して、女性誌しかない雑誌ラックとか、友達にもらった人形とかぬいぐるみが置いてある棚とか、一つ増えた化粧台とか、その視線が移る度に、私も、そういえばここだけでも、こんなにこの家は変わったのだと思わせた。
兄は今日、お母さんを説得しに来たのかも知れない。中身の詰まったシュークリームは、まだ冷やされて4つも残っている。
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