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彼女は急に黙り込み、何かを考えているようだった。持て余した僕は空になったコーヒーカップの底を眺めてみた。何か重要なメッセージでも映って入いることを期待してみたがそんなことはなかった。やはりこんな話をするべきではなかったな、と考え始めた時、彼女の口がまた開いた。
「やはりあなたは気を付けるべきなのよ」
「ねぇ、あなたの後ろの席の彼、そう紺のジャケットの彼よ。あなた知っている?」
「……いや知らない。有名な人?」
「じゃあ、あの店員さんは?」と彼女はカウンターにいるマスター(らしき人)を指差した。もちろん知っている人ではなかったので僕は首を横に振った。この店には初めて入ったのだ、知っているはずがない。
「どういうことだい?」
「あなたには“見も知らぬ男”がたくさんいる、ということ。あなたが乗る電車も、あなたが歩く道も、“見も知らぬ男”で溢れているのよ?」
「それはそうかもしれないけれど……」
「ねぇ、“見も知らぬ男”があなたに突然ひどいことをしたって、不思議でも何でもないと思わない?あなたは何も考えずに道を歩いているのかもしれないけれど、その道が安全で、すれ違う人があなたに何もしないはずだと思っているのかもしれないけれど、それって、思い込みだとは思わない?何か勘違いをしているとは思わない?」
「ちょっと待ってくれよ、あの電話は夢だったんだよ」
「あの電話は夢かもしれないけれど、あなたが経験したことでしょ?」
「……夢も経験だというのならそうだけど」
「あなたは“見も知らぬ男”が溢れている世界で生きなきゃならないわ」
「僕は“見も知らぬ男”が溢れている世界で生きなきゃならない」
「そして、“あなたが考えてもみなかったこと”をあなたにしようとしている」
「僕に“僕が考えてもみなかったこと”をしようとしている」
「覚えておいた方がいいわ」
「間違えずに」
「そう」
彼女は話し終えると立ち上がり、上着を着た。
「そろそろ行きましょう」と言う彼女に、どこに?という言葉を飲み込んだ僕は、代わりにずっと口にしようとしていた言葉をやっと出す。
「ねぇ、ところで君は誰なんだい?」
目の前の“見も知らぬ女”は何も答えてはくれなかった。
end
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