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切腹
武士だけに許された刑
古くからあるが最古の例は、永延2年(988)盗賊
袴垂藤原保輔で、役人に居宅を包囲されたときに腹を切り、腸をつかみ出したが死にきれず、翌日獄中で死んだとある。
腹をきることの意味
人間にとってもっとも大切なものは魂であり、それは腹の中にあると考えられていた当時、武士は自らの死に臨んだときにも自分を律することができるとして腹を切らせた。しかし、武士以外の者は自分を律することができないので、罪を償うにも自分では命を絶つことができないとかんがえられていたのである。
幕府法において切腹は、五百石以上の武士は大名などの屋敷内の庭、それ以下の者は牢屋内の庭で夕方から夜にかけて執行されるようになっていた。江戸時代初期までは、三方に乗せられた短刀で腹を切った後、首を介錯されたが、中・後期になると自分で腹を切れない武士や、死を目前に短刀を振り回して騒動を起こす武士が現れた。そのため切腹とは名ばかりで、短刀のかわりに木刀や扇が用いられるようになる。三方に乗せられた9寸5分(約28.7cm)の木刀を取ろうと上体を傾けた瞬間、介錯人が首を切るのである。首を切ると、副介錯人がそれを取って立ち会いの検使に見せる。検使は始終を見届けた旨を述べて、刑の執行は終了した。首と身体は、遺族や家来などに返された。自殺の形をとっているものの、切腹とは、つまるところ斬首にほかならなかったが、自ら罪を償うものとして、あくまでも名誉を重んじた方法であった。
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