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再び包丁を振りかざし、刺す。それを何度か繰り返しているうちに、彼の形が崩れた。まるで泥人形が水をかぶったように。昏い瞳があった場所はぽっかりとすべてを飲み込みそうなほど深く暗い穴がある。唇は半分剥げ落ち、歯が見えていた。抵抗する力もなく、皐月(さつき)さんの無事を願いながら茫然と見つめていると、ずるりと残りの肉が嫌な音を立てて地に落ち、桜の花びらと土にまみれた。
視線を戻すと、もう忠雄(ただお)の姿はなかった。そこにあったのは、人ではなく――怪異そのものだった。その背後には、何人もの躯(むくろ)たちが控えていた。怪異の大群。彼らが骨だけの手を私に伸ばす。逃れようともがこうとするも体は動かなかった。怪異達はひたすら私の名を呼んでいた。
――春陽(しゅんよう)。
女性の声が聞こえる。
――春陽。
優しく呼びかける声。
はじめは1つだけだった声は、やがて大量の人間だったものの声が重なり埋もれてしまった。声は轟音となっていく。耳が痛い。呼ぶな。私の名は、怪異ごときが口にしていい名ではない。
「春陽」
呼ぶな。黙れ。私の名を、それ以上は呼ばせない。
死んで化け物となった身で、呪われた身で、生きた人間に害を為すな。私の仲間を傷つけるな。
「春陽」
黙れ。私の名を呼ぶな。全員叩き斬ってやる。
あいつとは違う。お前らは、ただの化け物だ。喰い殺してやる。今すぐにでも。
「春陽!」
「黙れ! やめろ!!!」
「春陽、落ち着け。春陽!」
がばりと身を起き上がらせると、一対の手が私を静止した。その手は肉が削げ落ちむき出しになった骨の手と重なる。
知らず手は、刀を見つけて抜き放とうとする。が、刃は抜けず、微動だにしなかった。
「放せ! 放せ――」
「春陽(しゅんよう)! 落ち着け。大丈夫だ。お前はちゃんと帰ってきた。よく見るんだ、夢は醒めた」
「…………」
「もう大丈夫だ」
局長が安心させるように背中を撫でてくれる。一瞬、そのまま気が抜けそうになるが倒れる直前の事が頭をよぎった。
「違う。違う……大丈夫なんかじゃない。樹希(たつき)は?」
「隅田川に向かった」
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