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「店長、急用で買い出し行ってるから来れないよ。――で、はい。鍵」
ポロシャツにジーンズというラフな格好の少年は、おもむろにむき出しの鍵を渡す。
「スペアだから持ってろってさ。で――」
さらに少年はジーンズのポケットから紙切れを一枚、ぴらりと取り出す。
「一万円もらった。これでお前に夕飯を食べさせてくれって。……つうかこれ、お前にやるよ」
絵里香はパシッとひったくると、無造作にスカートのポケットにしまう。
よく見れば白いブラウスの襟のところが汚れている。
「そう……そうやって自分で来ないんだ、あの人は。……嫌われたのね、私」
「そうじゃねーだろう。今夜オーナーの友達とかってのが急に大勢で来る事になったんだよ。それでレストランは今、大忙しなんだ」
「ちょっとくらい顔見せてくれてもいいじゃない? ――なのに知らない人に持ってこさせるなんて」
「よくわからないけど。でも店長っていう立場上、抜け出せないのは仕方ないんじゃないか?」
――そう、もういいわ。知らない人に話す事じゃないもんね。
絵里香は視線を逸らすと寂しそうに俯く。
よそ様の家庭の事情に立ち入るつもりは無いが、何となく影の様なものを感じると、春樹はわざとらしく声を張った。
「行くぞ。俺はもう今日はあがりなんだ。麓で一緒に飯でも食おうぜ」
「……やだ。なんでアナタと一緒に行かなきゃならないのよ?」
訝しがる絵里香に春樹はニヤリと意地悪く笑う。
――夕日の沈む逢魔が時
湖上に一艘の舟来たる。
その舟無人で不思議かな
おいで乗れよと声かける――
「っていう唄がこの湖にはあって、そろそろその『逢魔が時』なんだよ」
――早くここを出ないと、お前、連れてかれるぞ?
「ちょっと、何よ、脅し? そんなヘンな唄、今時子どもだって信じないわよ!」
「いや……そうでもないんだぜ? よくあるだろ、神隠しの話し。その類だよ。行方不明者、結構出てるんだぜ?」
そして目の前に広がる湖面を指差す。
ゾクリ……背中に悪寒が走ると、絵里香はすぐにベンチから立ち上がった。
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