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「ほら、いつまでも座ってないで、あなたも準備しなさい」
と、どこまでも優しい笑顔で言うと、ナオミは春樹に片手を差し出して引っ張って立たせてやる。手を握っている! ――と思ったとたんに春樹は急に気恥ずかしくなり、一気に立ち上がってしまおうとして、ふんっと気勢一発、掴んでいるナオミの手を思いっきり引いた。すると――
「ワオ、大胆ぁーん!」
ドスンと、ナオミが覆い被さるように倒れてくる。春樹にバカみたいな力で腕を引っ張られて、立っていたナオミの方が踏ん張れなかったのだ。二人はピットの床に抱き合うように倒れ込むと、身体を密着させ、足を絡ませ……もうキスする寸前だ。ナオミのフルーティーな香りが……甘い吐息が春樹の顔にかかる。
「い、いや、こ、これはその……そんなんじゃなくって……えーっと、ああの――」
ナオミの誘うように物憂げな視線から逃れる事はできず、春樹は精一杯の弁解をしようと声を出すのだが、うろたえてどもるばかりで――
その時、『ガチャリ』とドアが開く音がする。
「――ちょっ、えっ! な、何やってんのよ……」
いきなり更衣室のドアが開いたのだ。何というタイミングの悪さ。これはいけない。……間違いなく血の雨が――と覚悟した春樹だったが、何か忘れ物を取りに行こうとして、まさかの二人の濡れ場を目撃した翔子は、それ以上の言葉は発さずに嫌疑と憤怒の色が混じった光を双眸に宿したまま、すぐにドアを閉めて中に戻ってしまった。
絶体絶命――むしろその場で喚き散らしてもらった方が、春樹も全開で弁明できる。それであとくされなく終わりに、といういつもに展開にならなくなってしまったのだ。
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