プロローグ

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プロローグ    出入金の管理は、常に一円単位の神経を注ぐ。これは、勤務心得にある、顧客に対して公平で忠実な姿勢に努めるべし、の教えに倣うものである。すなわち、一円のミスをも見逃さない気構えが銀行員として最大の誠意の表明なのだった。 「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」  園田真希菜は、膝上に手をついて折り目正しく頭を下げる。弾んだ声に、弾んだ心。生来人と接することが好きだっただけに、窓口業務という仕事は向いていた。去っていく顧客の背中にも笑顔を降りそそぐことに、何のためらいも感じない。  南陽信用金庫は、静岡県内に十一つの支店を持つ、地方だけに特化した金融会社だ。きめ細やかなサービスを徹底することで大手とは差別化を図っている。無料でコーヒーが配られる待合所はアットホームな雰囲気で、ともすればビジネスライクに陥りやすい行員の声は、親和がこもっていて、年寄りにも優しい。配布するものといえば、見やすさ重視の大文字印刷が中心で、邪な広告やキャッチなどは一切載せたりはしない。  何かと背伸びしない等身大に生きる真希菜には、ぴったりの職場であった。勤続三年目。そのことを、いま肌で分かる程に実感していた。ここは、もうひとつの自分の家のようなところなのだ、と。  ここで頑張ることが、地域貢献にもつながる――  真希菜はそう考えていた。だからこそ自分のすべてを出し切ることにこれといった迷いはなかった。  その時、一人の男が、真希菜の前に立った。  屈託ない笑顔を顔に満たしたのは、ほぼ習慣の成せる業であった。 「いらっしゃいませ――」  ふと、不穏なことに気付いた。  男の様相がおかしいのである。獣じみた荒い息を吐き、射竦めるような眼光を飛ばしている。まるで真希菜に怨みをぶつけてくるようである。近くに立っていた先輩行員も作業の手を休め、その男を注視に掛かっていた。  男が突然言った。 「お前だなぁ? この野郎」 「え」  なぜ、目の前の男に怨みがましく言い立てられているのか、分からなかった。若い男であった。まだ、二十代中盤ぐらいであろう。顔に覚えはなかった。少なくともここ二三ヶ月のあいだに接した顧客の顔はすべて覚えているつもりであった。そのなかに、該当する顔ではない。  
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