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「そもそもお風呂場なんて、日常体験としてさ、裸になるし、無防備だし、寒いし、イメージ的にバッチリなんだよね。濡れてるところはすべって転ぶかも知れない、あとは溺れる、とかね」
溺れる、という言葉に思わず反応して顔を上げてしまった。信号は緑になっていて、ボクは何事もなかったかのように、平常心を保って歩く。
賑やかだった街道からそれて、分かれ道で彼女と離れ離れになると、ボクは「幸せ屋さん」の事を思い出してちょっと振り返って、そこにただほのかな灯りで照らされた闇があるだけなことに安心する。
「水場のイメージ、か……」
そりゃそうだ。誰だって、多分、人間じゃなくても怖いに決まってる。そうでなくとも、昔、子供の頃、お父さんに何でも一本好きなのいいぞと言われてDVDを借りて、留守番の時だったかに独りで見たのを忘れない。
浜辺で楽しそうにしている人々。最初の被害者が血まみれで海に浮んで、それからは次々に、悲鳴を上げながら大きな鮫に食べられていく。口をあけた牙がでこぼこで、怖くて、もう続きが見られなくなって泣いているところに両親が帰ってきたのだったと思う。
ボクは翌日、そのことも彼女に話した。すると一瞬、虚をつかれたような顔になって、それから吹き出して言う。
「そ、そんなのっ、まだ、まだ気にしてるんだ?」
「そんなのって、自分には重要な話でですね」
「ハイハイ、じゃ、いいコト教えてあげる」
彼女はボク達の他に誰もいない、水槽のような狭い部室の真ん中に仰々しく立ち上がった。
「あのね、鮫ってさ、鼻先が敏感なの」
「……嗅覚とかですか?」
「お、鋭いね。なんかさー、何万分の一滴の血液でも分かるってのは敏感だかららしいんだ。だからさ」
指先を立てて、
「コツン、ってやっちゃえばいいよ」
「こつん?」
「そ、鮫が襲ってくるならさ、鼻先をちょっと叩いてあげれば、逃げてくよ、どう?」
得意げな彼女に、ボクは何と返したらよいものか分からなかった。これは高度な比喩なのだろうか? それともいつもの冗談か、うんちくを披露しただけだったのか。
その後、今度は新ネタだといって公衆電話からスマホに鞍替えした「メリーさん」の話とか、人面犬ならぬ人面猫の可能性とかの話に流れてしまって、鮫のことは聞くタイミングがなかった。
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