土橋美幸(5)

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◇◇◇ 「土橋君」  腕時計で時間を確認しながらエントランスを出た所で声を掛けられた。  この声は良く知る人物だ。そのまま時計から視線を外して声のした方へ振り返る。 「坂下(さかした)先生」  グレーのスーツを着た小柄な老恩師が、細かく歩を刻みながらにこやかに此方へ歩んで来た。 「裁判資料かね」 「ええ」  手にしていた封筒を鞄に仕舞って、老恩師と歩き始めた。  坂下弁護士は私が新米の頃に彼の事務所で勉強をさせて貰っていた。三年程、お世話になってから父の事務所へ戻り、そしてそのまま事務所を継いだのだ。  ただ、その後も何かと坂下弁護士に相談事や意見などを聞き、彼も私に対して親身に接してくれた。  私の父とは違い、人権派のこの弁護士はなかなかに苦労するような厄介な案件ばかりを担当していたが、その弁護信念は私が尊敬する元となっている。  父とほぼ変わらない年で、私の父はさっさと隠居を決め込んだが、この老恩師はまだ第一線で後進の指導などをしている。 「少し話が出来るかね。私の事務所に来ないか」  彼の話の内容は分かっている。  これは避けては通れない案件だから、私はその申し出に素直に応じた。  久し振りに入った古い事務所のソファに座り、これまた、長く勤める年配の女性事務員に挨拶をされると、漸く私は落ち着いて目の前に座る恩師に向き合った。 「……先日はお電話をくださり、ありがとうございました」  熱い茶を啜りながら、ああ、うん、と老恩師は小さく頷いた。それでも少し話にくそうにする彼に、私の方から話題を切り出した。 「出所が、思ったよりも早かったですね」 「そうだねえ。模範囚で仮出所だそうだ。今は保護司の元で世話になっているのだろうけれど」  ずずう、と茶を啜って、熱い、と言うと老恩師は湯呑を置いた。 「多分ね、田所(たどころ)はまた、うまく立ち回っただけのような気がしてね」  ――田所。  自分の妻に対する酷いDV行為を行っていた男。  離婚裁判で負けてしまい、激高した彼はシェルターに避難していた妻と子供の居場所を突き止めて、そして――。 「この事は、彼女には?」 「伝えようにも日本に居ないからね」
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