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◇◇◇
「……それで? 一体、俺に何の用事なんですか? ドバシミユキさん」
渡した名刺の裏側に印刷されている英氏名を確認することなく、目の前の若者は言った。
声を掛けた際にも名前を告げたのだが、端から此方の言葉など聞こえていなかったのだろう。
だが、こんな間違いはいつもの事だ。
「私の名前について、貴方は二つの間違いをしています」
極めて冷静に目前の若者に言う。
「私の姓はドバシではなく、ツチハシ、名はミユキではなくて、ヨシユキ、です」
訂正した言葉に若者は、じっ、と名刺の裏側に視線を落として何かを確認すると、
「ああ、それはスミマセン。土橋美幸(つちはしよしゆき)センセイ」
と、面白く無さそうに言った。その態度の悪さに無理やり顔に貼り付けた笑みが解けそうになる。
――何故、安請け合いをしてしまったんだ。
テーブルを挟んで眠そうに大きな欠伸をした青年を前に、私は顔には出さずに激しく後悔をした。
あれは、一か月前だった。
「土橋所長、お客様がお見えです」
外出から帰ってきた私に女性スタッフが声を掛けた。
今日はもう、来客の予定は無かった筈だ。
飛び込みで相談に来る人はうちの事務所には皆無だから、少し訝しんだ。
「……どなたですか?」
「貝塚様です」
――貝塚佳彦(かいづかよしひこ)
二十年来の友人の名前に、急に気分が曇ってしまう。
……何をしに来たんだ。
スタッフに礼を言って、自分のオフィスに向かう。ガチャリとドアを開けると、
「やあ、お帰り」
と、昔からの腐れ縁の友人が窓越しに外を見ていたのか、此方に振り返りながら言った。
まったく、いつも隙の無い格好をして。
窓の外のビル群を背にして立っているこの男の姿は、それだけで美しい絵のように見えてしまう。
長身の肩幅の広い締まった身体を包むのは、如何にも高級そうなスーツ。
明るい色の髪を軽く後ろに流して、にこやかに此方を見て笑う眼鏡の奥の翡翠色の瞳。
黙っていると少し冷たそうに見えるその精悍な顔には、彼の中に流れる八分の一の異国の血が垣間見えている。
「相変わらず、忙しそうで何より」
「……ああ、忙しいよ。お前の顔も見たくないくらいに」
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