7093人が本棚に入れています
本棚に追加
/837ページ
優しくて、信頼が出来て、いつも平穏な安らぎで私を包んでくれた人。
そんな一之瀬さんとの関係を、自ら簡単に断ち切る事が出来るなんて。二ヶ月前の私なら考えもしなかった。
想われている事に胡坐をかき、曖昧な関係の居心地の良さに甘えて、彼の真剣な気持ちにも気づかない振りをしていた。
彼の好意を利用していなかったと言えば嘘になる。
「……ごめんなさい。本当に」
熱湯を飲まされるかのような自責が湧くのに、そんな当たり前の言葉しか出て来ない。
「もう謝らなくていいよ。……指輪、麗香をイメージして選んだんだ。餞別として受け取ってくれないか?」
「え……で、でも」
一度渡したプレゼントを、別れの言葉に添えて返される虚しさは想像がつく。
使う事も処分することも出来ないからと言って、別れを突き付けた相手に返品するのはただの自己満足。
返せと言われたら話は別だが。立ち去る事への罪悪感が欠片でもあるのなら、使うなり捨てるなり自分で対処するのが誠実さだと思う。
けれど、目の前にあるのはダイヤが埋め込まれた婚約指輪。ブランドバッグや時計とは訳が違う。
渡された時には「土産」だと冗談めかして言われたけれど、「そうですか」と言って容易に受け取れるものでは無い。
「……」
再び重い沈黙が漂う。
新緑が風に揺れる枝々の間を抜け、西の空から差し込む陽の光が刺すように痛い。
「麗香、最後に一つだけ聞いて良いか?」
葛藤に口籠る私を見て、一之瀬さんが話題を転じる。
「……」眉をひそめて無言で頷く私。
「一時でも、俺を愛しいと思ったことはあったか?」
私の瞳の奥を見透かす様な目をして、彼は儚げな笑みを浮かべた。
最初のコメントを投稿しよう!