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タクシーから降りて地に足を着けると、アスファルトに蓄積された熱気が体に纏わりついてくる。
遠く微かに響いてくるのは、様々な物音が一つに入り混じる街の騒音。
普段歩き慣れた景色の中にため息を落とした後、後部座席の窓から顔を覗かせる一之瀬さんに再び目を向ける。
「近いうちにまた連絡する。今度はゆっくり食事をしよう。麗香が好みそうな店を探しておくから」
「うん。今夜は本当にありがとう。ごめんね、忙しいのに」
夜風で乱れる前髪を指で押さえ、ゆったりと微笑む彼に小さく頭を下げる。
「だから、何度も謝るなって。これからごめんは禁止だからな」
「だって……ホント、ごめんなさい」
この歳になるまで恋愛の悦びも切なさも、失恋の苦しみさえ知らなかった私。鼻持ちならない女であった頃の過去も踏まえ、常に誠実に接してくれる彼には感謝と謝罪の言葉を言い尽くせない。
「こらこら。言ったそばからまた。俺に遠慮は要らないって言っただろ。それに……」
「……」ーーーそれに?
「初めて泣き虫なお子ちゃま麗香に出会うことが出来た。それだけでも来た甲斐があったよ」
「ええっ!?泣き虫なお子ちゃま!?」
「ははっ!冗談、冗談。って事も無いけど」
悪戯を成功させた少年のように大笑いをする彼。
「もう!一之瀬さん!」
痛いところを突かれたと自覚しつつ、羞恥を隠すように一喝して小鼻を膨らませる。
「でも、俺は今の麗香の方が好きだけどな」
「え?……」
「感情的なのは女性の魅力。毅然とした以前の麗香も素敵だったけど、今の君を見ていると人間らしくて愛おしく思う」
一之瀬さん……
「ただ、いい女に成長させたのが俺ではなく、他の男だと言うのが正直癪に障るけどな」
端から聞けば歯の浮く言葉も、彼が口にすると木の葉を揺らす風の様にさり気無い。
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