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手のひらを翻したような一之瀬さんの挑発。手に汗を握る私は重く圧し掛かる空気に耐え切れず、堰を切るように口を挟む。
「一之瀬さん待って!悠希が母に会えない理由は、私のことを思ってのことなの。昏睡状態にあっても聴覚は維持されていると、声は届くと、私たちは可能性を信じているから。……信じている分、悠希は自分の声を母に聞かせることで、母の容態に悪影響を及ぼすかも知れないと恐れてる。それは私も同じ。母が私たちの仲を許してくれるはずがないもの。スピリチュアルな話だと思われるかもしれないけど、母の寝顔を見ているとふと怖くなる。『私がこうなったのはアンタのせいよ』って、母に責められている気持ちになる」
悠希の胸元を捕らえる一之瀬さんの腕に手を触れ、苦しい胸の底から毅然とした言葉を絞り出す。
「母が倒れたことで、確かに私たちは怯えてる。背徳感に圧し潰されそうにもなる。だけど、私たちは一生その背徳感を背負って生きると決めました。私の中で悠希の存在が薄れることなんてあり得ない。二度と諦めたりしない。離れない。彼も同じ気持ちでいてくれる――そうでしょ?」
悠希。あなたは臆病者なんかじゃない。例え一之瀬さんに見透かされた心情があろうと、自信をもって。何にも臆せず私を愛し続けると言って。
「ああ、勿論だ。麗香……」
悠希がゴクリと喉を鳴らしたのが分かった。唾液と一緒に飲み込んだ言葉が何なのかは分からない。だた明らかに変化をもたらしたのは、一之瀬さんを射すくめる鋭い眼光。躊躇の微塵も感じられない。
「おお。これは想像を上回る展開だな」
一之瀬さんはククッと喉を鳴らすと、悠希のジャケットから手を放した。それまで張り詰めていた空気の色が、数回の瞬きをする間にフワッと解ける。
「えっ……」――想像を上回る?どういう意味?
私と同様、悠希も気勢を削がれた様子で一之瀬さんに目を向けている。その呆けた隙を突いて、一之瀬さんは胸ぐらを掴んでいた手で拳を握った。――その直後、くぐもった小さな音を立て悠希の腹に一発パンチが入る。
「ウッ!……えっ?……あ、あの」
悠希は殴られた腹を抱え、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。その平気な表情からして、パンチは本気で繰り出されたものではないらしい。
虚を突いた一之瀬さんの行動に愕然とする私は、半開きの口を閉じるのを忘れ、目を瞬かせる。
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