第26話 咆哮

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忠彦の体が少しずつ衰弱していることは、菜々美にも感じられた。 薬を飲んでしばらくすると、たいていウトウトと眠ってしまう。 今もそうだ。 押し寄せてくる寂しさが鬱陶しくて菜々美は、隅に置いてあるテレビをつけた。 ボリュームを上げて寒々しい静寂を掻き消そうとしたのに、うるさいだけのバラエティはちっとも楽しくなくて、余計気が滅入った。 この部屋はそもそも、殺風景すぎる。 菜々美が大好きな忠彦の絵も、一枚だって飾られていない。 小6の時、公園でスケッチしていた忠彦の絵に一目ぼれし、勝手に「先生」と呼んで、度々話しかけるようになった。 押しかけるようにこの家に遊びに来て、あの裸の絵を描いてもらうような仲になるまで、そんなに時間はかからなかった。 忠彦の菜々美を想う優しさは本物だ。 家族が温かいものだと思ったことのない菜々美を、はじめてすっぽり包み込んでくれる愛情だった。 「僕が恋心を抱く対象は、世間から見たらひどく非常識なんだろうね。それは承知している。息子にばれた時も、ひどく罵られたよ。 ああ、だからと言って、もちろん幼ければ誰でも良いわけじゃないよ。こうやって打ち明けて付き合うのは菜々美が初めてだ。 菜々美は特別なんだ。出会うべくして出会った子だと思ってる」 「でも、奥さんがいたんでしょ?」 「うん。ひとりの人間として僕なりに大切にしたよ。息子が中学生の時に事故で亡くしたんだが」 菜々美の裸体をキャンバスに描きながら、忠彦は答えにくい質問にも全て答えてくれた。 絵を描いてほしいと頼んだのは菜々美であり、そしてコミュニケーションの一つとして忠彦はそれを承諾したのだが、描きあがったそのあまりに瑞々しく鮮やかな油彩画に、忠彦自身が困惑したようだった。 「さて、この罪な絵をどうするべきかな」 真剣に悩んで慌てる忠彦の顔を思い出すと、菜々美はいつも笑ってしまう。 可愛い人なのだ。 「捨てちゃえばいいよ」 完成した絵など菜々美にはどうでもいいのだ。ただ描く間じっと見つめて欲しかった。 ずっとずっと、長い時間。 あの優しい目で、愛おしいものを見つめる目で、肌を透かして自分の心臓や骨までずっとずっと見ていてほしかった。 そうすることでやっと自分がここにこうして存在することを許されているような、安堵感を得られた。
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