第28話 炎の記憶

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優馬の顔を執拗に照らしていた懐中電灯が、ゆっくりと遠ざかり、床に置かれる気配がした。 そのため部屋全体がようやく明るさを得、信夫の輪郭がぼんやりと確認できた。 それでも直視することは恐ろしく、優馬は怯えた小動物の様に浅く呼吸しながら視界の隅でその動きを伺った。 信夫は手に持っていたペットボトルの蓋を開け、中の液体を慎重に入口付近にこぼしていく。 辺りに灯油のような匂いが広がった。 カラカラと音を立ててボトルの蓋を締めた後、ゆっくり優馬の方を振り向いた信夫の表情は、やはり光が届かず見ることは出来なかった。 「放火魔は中学生だって言う噂があるよね。あれは君のことだよ、優馬君。ミスったね、見られちゃったんだよ、あの夜。 君はその後、放火の魅力に取りつかれてこのモーテルにも火をつけるんだ。だけどその悪戯は失敗に終わる。 悲しいことに、逃げ遅れて自分ごと焼いてしまうんだ」 静かにそう言った後、信夫と懐中電灯の光は、ゆっくりとドアを出て廊下に移動した。 廊下から再びこちらを振り返った男の腕が床に延ばされたと思った瞬間、かちりという音と共に、ぱっとオレンジの炎が上がった。 信夫が書いたシナリオをなぞる様に、炎の蛇は体をうねらせ入口を塞ぎ、今まで闇に沈んでいた部屋を眩しいほどの緋色に照らして染め上げた。 「バイバイ優馬君。ごめんね」 ドアが閉じられる直前、その夜はじめてはっきりと見た信夫の顔は、恐ろしいまでに穏やかな普段の表情だった。 新しく築こうとしている幸せな家庭と、その家族を大切に想う、穏やかで平凡な男の顔だ。 あの優しげな顔で今夜も草太の家に戻るのだ。 何もなかったかのように。 吐き気と共に込み上げてくる絶望を感じながらも、優馬は今一つこれが現実だという実感が持てず、ただ閉じられたドアの手前で揺らめく炎を見つめていた。 頭の痛みは思考を妨げるほどの痺れに変わり、蹴りつけられた体は、杭で床に打ち付けられたように身動きが利かない。 たぶん鍵などかかっていないだろうドアは、もう永遠に手の届かない場所なのだとボンヤリ感じた。 あの夜見たもの。……思い出せ。放火。信夫。岸田の家。……炎。 目の前に広がる炎を優馬はただ放心したようにじっと見つめた。 頭の痺れは、ゆっくりと恐怖心を鈍麻させ、ただ目の前の炎を見ろと優馬に言っているように思えた。
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