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獣のような形相で自分を罵倒し、駆け上がっていく草太を目で追いかけながら、信夫は放心していた。
全ての目的を見失ったように、ただ目を見開き、もう誰もいなくなった真っ暗な階段を見上げる。
けれども優馬の名を呼ぶ草太の声が上の方から聞こえてくると、次第に我を取り戻し、信夫はゆっくりと息を吸い込んだ。
掴んでいた草太のジャケットを脇にはさみ、レジ袋から取り出したペットボトルの蓋を開ける。
そして容器に半分残っていた液体を丁寧に丁寧に、まるで聖水で階段を清めている聖職者の様に、緩慢な動きで垂らしていった。
満足のいく程度に階段を液体で浸した後、数段降りてから信夫はもう一度闇へ続く階段を見上げる。
顔の筋肉を動かさず、そして儀式の続きの様にゆっくりと呟いた。
「草太。さようなら」
カチリという小さな音のあと、木製の階段は鮮やかなオレンジの炎を纏い、闇に浮かび上がった。
信夫はその熱と眩しさに目を細める。
天を目指す様に、炎は次第に勢いを増しながら階上に燃え広がり、ぱちぱちと音を立てて爆ぜた。
信夫は草太が残したジャケットを胸に抱き、もう一度だけ草太の名を愛おしそうに呼んでみたが、そのあとはあきらめたように炎に背を向けた。
空のペットボトルにきちんと蓋をし、ビニール袋に入れて手に握る。
自分がここに来た痕跡は、すべて消せただろうかと、草太の薄いジャケットに顔をうずめながら頭をめぐらせてみる。
「?」
―――頬に固い感触。
ジャケットをまさぐり、そのポケットの中に草太の携帯電話が入っているのを見つけると信夫は、ほんのわずかに安堵の笑みを浮かべた。
優馬から奪った携帯電話と合わせて空のペットボトルの入ったレジ袋の中に落とし込む。
大切な物を失った喪失感を、整理整頓した爽快感の中に紛れ込ませたあと、信夫は小さく重い袋一つをぶら下げ、もう振り返ることもなく、裏口のドアから消えて行った。
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