第30話 解き放つために

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夕食の後片付けをした後、菜々美は気乗りしないながらも家に“少し帰りが遅くなる”旨の電話を入れた。 忠彦がうるさく言ってきたためだったが、電話に出た母親は「そう」とひとこと言っただけで、関心など欠片もなさそうだった。 落胆はもうない。逆にせいせいした気分だった。 「先生はもう絵を描かないの?」 りんごの皮を果物ナイフで剥きながら、菜々美はソファに座ってこちらを見ている忠彦に訊いた。 「うん、別にどうしても描きたいって訳じゃないから。なにか自分というもののスタイルを作っておきたかったのかな。公園なんかで描いてると、通りすがりの人が話しかけてくれたりして、それなりに楽しいし」 「そして私が釣れちゃった」 「ひどい言い方だよね、それ」 忠彦は笑ってくれたが、やはりどこか力の入らない笑いだった。 薬を、最近やたら飲むようになった。 それがもはや病気を治療するものではなく、苦痛を誤魔化すだけのものなのだと菜々美も理解している。 静子の代わりに今夜、菜々美があり合わせで作った食事も、忠彦はあまり手を付けなかった。 すまなそうにする忠彦が哀れでならない。 忠彦の世話ができるのは静子だけだったのではないかと、今さらながら不安で泣きそうになる。 「菜々美の絵を描けたから、もう満足なんだよ。あれを描いている間、僕はとても幸せだった」 「でもあの絵はきっともう松宮先生が処分しちゃったよ。私がお願いしたの。保管じゃなくて、誰にも見られないようにちゃんと処分してって」 忠彦が笑った。 「君は剛志をうまく利用するよね。うん、もちろん僕もそうするつもりだった。あの絵は描くための絵で、残すための物じゃなかった」 「セックスだったのよね」 「……え」 「あれは先生と、12歳の私のセックス。交尾。交信。ねえ、そうでしょ?」 忠彦はしばらくじっと菜々美を見ていたが、やがてさっきよりも大きな声で笑いだした。本当におかしそうに。 菜々美はとても真剣に言ったつもりだったのにと、唇を尖らせた。
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