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夕食の後片付けをした後、菜々美は気乗りしないながらも家に“少し帰りが遅くなる”旨の電話を入れた。
忠彦がうるさく言ってきたためだったが、電話に出た母親は「そう」とひとこと言っただけで、関心など欠片もなさそうだった。
落胆はもうない。逆にせいせいした気分だった。
「先生はもう絵を描かないの?」
りんごの皮を果物ナイフで剥きながら、菜々美はソファに座ってこちらを見ている忠彦に訊いた。
「うん、別にどうしても描きたいって訳じゃないから。なにか自分というもののスタイルを作っておきたかったのかな。公園なんかで描いてると、通りすがりの人が話しかけてくれたりして、それなりに楽しいし」
「そして私が釣れちゃった」
「ひどい言い方だよね、それ」
忠彦は笑ってくれたが、やはりどこか力の入らない笑いだった。
薬を、最近やたら飲むようになった。
それがもはや病気を治療するものではなく、苦痛を誤魔化すだけのものなのだと菜々美も理解している。
静子の代わりに今夜、菜々美があり合わせで作った食事も、忠彦はあまり手を付けなかった。
すまなそうにする忠彦が哀れでならない。
忠彦の世話ができるのは静子だけだったのではないかと、今さらながら不安で泣きそうになる。
「菜々美の絵を描けたから、もう満足なんだよ。あれを描いている間、僕はとても幸せだった」
「でもあの絵はきっともう松宮先生が処分しちゃったよ。私がお願いしたの。保管じゃなくて、誰にも見られないようにちゃんと処分してって」
忠彦が笑った。
「君は剛志をうまく利用するよね。うん、もちろん僕もそうするつもりだった。あの絵は描くための絵で、残すための物じゃなかった」
「セックスだったのよね」
「……え」
「あれは先生と、12歳の私のセックス。交尾。交信。ねえ、そうでしょ?」
忠彦はしばらくじっと菜々美を見ていたが、やがてさっきよりも大きな声で笑いだした。本当におかしそうに。
菜々美はとても真剣に言ったつもりだったのにと、唇を尖らせた。
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