第31話  指先に触れるもの

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「菜々美、それはどういう意味で言ったんだ?」 忠彦が困ったような、そして真剣な目で菜々美を見つめてきた。 菜々美の手には、りんごの皮をむくのを中断されたナイフが握られたままだ。 「そういう意味よ。今、研究中なの。どうやったらちゃんと先生に付いていけるのか」 「冗談だったら、笑えないな」 「本気だったら笑ってくれる?」 「菜々美」 「私、真剣なのよ。こんなに先生を想ってるのに、私の言う事なんてちゃんと聞いてもいない。私はいつだって本気なのに」 ナイフを手の中で弄び、「これ、切れなさそう」とつぶやく菜々美を忠彦は強い口調でたしなめた。 「頼むから菜々美。出会ったことを後悔するようなことは言わないでくれ」 菜々美は薄笑いをやめ、ナイフをテーブルの端に置いた。 「先生は今まで幸せだった?」 「……今度は質問?」 声は困惑のままだったが忠彦は猶予を与えられたと思ったのか、いくぶんほっとした表情にもどり、ソファにゆっくり身を沈めた。 「ねえってば、幸せだった?」 菜々美はなかなか対等に話をしてくれようとしない忠彦に焦れながら、答えを待った。 この1年、自分は忠彦によって救われてきたが、この男の中にはただ、自責の念が溜まってしまっただけなのではないだろうか。 その思いが膨らんできて止まらなかった。ここ数か月ずっとそうだ。 自分の役割とはなんだろう。自分の存在する意味とはなんだろう。 けれどその答えが今、おぼろげながら見えてきたような気がしていた。
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