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今、耳の奥に蝉の鳴き声が聞こえた気がした。
それとも、火の回った階下からの振動だったろうか。
優馬は意識を一点に集中させた。
小さな何かがコトンと頭の隅ではじけ、異質なその断片がゆっくりと溶けて優馬の脳を満たしていく。
鈍く痛んでいた頭はヒンヤリとして鎮まり、そして意識以外のすべての感覚が、体からこぼれて行くように消え去った。
―――あの夏の日への扉が開く。
ベビーベッドの中に、直が寝ている。紀美子はいない。
うだるほど暑いのに、直の体に良くないと、クーラーはいつものように緩く設定されていた。
上向きに寝ている直は、首の下に汗をかき、寝苦しそうにもぞもぞと動く。
優馬はお気に入りのゲームウォッチを握り締めたまま近寄り、ベッドの柵に足をかけて覗き込んだ。
紀美子の産み落としたこの生き物がここにいることが未だに腑に落ちず、8歳の優馬は紀美子がいないときは、そうやっていつも直を観察した。
どうにかして納得しようとしていた。紀美子の愛するものが、自分以外にも生まれたことを。
そしてこの弟という存在が、自分から紀美子を奪うものではないということを。
紀美子によく似た、ふっくりとして小ぶりな唇。長い睫、色白な肌。
柔らかな耳には、今朝つけたばかりのひっかき傷があった。むずがって、自分でひっかいたのだ。
爪をきれいに切ってやってもまだ紀美子は不安そうで、ちょうど今、近所の知り合いの家にお古のミトンをもらいに行っている。
帰りが遅いのはきっと、話がはずんでしまっているのだろう。
直のたった5ミリほどの小さなひっかき傷が、紀美子には辛いのだ。
直が泣けば夜通し抱っこし、外を散歩し、時間のほとんどを直のために使った。
優馬がないがしろにされることは無かったが、あの笑顔が向けられるのはほとんど直だった。
優馬は「優馬」では無くなり、「お兄ちゃん」と呼ばれた。
名前と同じように自分はもう少ししたら、存在を忘れられてしまうのだろうか。
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