第32話  優しくて残酷で

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漠然とした不安に胸が震えた。この赤ん坊が生まれる前の日々が愛おしくてたまらない。 時間が戻ればいいのにと、乳臭い匂いを嗅ぎながら直を見つめた。 そんな思いが伝わったのだろうか。目の前の直が突然ふにゃりと声をあげた。 体をくねらせ、むずがった。 じっと見ている優馬の目の前で四肢をぴんと突っ張らせ、驚いたことに、くるりと体を反転させ、うつぶせになったのだ。 今まで一度もそんな動きをしたこともないし、その動きは気味のわるい軟体動物の様にも見え、優馬は息を呑んだ。 柔らかな枕とマットレスは、その顔と体をズッポリと飲み込み、直の耳はすぐに赤く充血した。 手足をばたつかせたが、顔を横に向ける力もないらしい。顔面はマットレスから剥がれず、やがて毛の薄い後頭部全体が赤みを帯びていく。 優馬は慌ててベッドの柵に腹を乗せ、身を乗り出した不安定な体制で直に手を伸ばした。 持っていたゲーム機が直の横に転がり、ストラップがしゃらんと音を立てる。 直の体はふにゃりとしてつかみにくく、さらに優馬の手を嫌がりひどく暴れたが、それでも何かに突き動かされるように優馬は必死にその頭と肩を掴み、何とか直の体を反転させることができた。 けれどその際、少し伸びていた優馬の爪が直の首をかすり、柔らかな肌に長いミミズ腫れを作ってしまった。 やがてじわりと血がにじむ。 耳の傷よりもずいぶん大きく痛々しい傷だ。 心臓が杭を打ち込まれた様に痛み、冷たい汗が全身から噴き出た。 目が合った直は優馬のその表情が可笑しかったのか、一瞬ほわりと柔らかく微笑んだのだが、首の痛みが不快になったのだろう、じきに顔を歪めた。 優馬は怖くて堪らなくなり、すぐさまベッドを飛び降りた。 ストラップを掴み損ね、ゲーム機が直の体の傍に残ったが、そんなことどうだっていい。とにかく怖くて仕方がなかったのだ。 紀美子の大切な赤ん坊に大きな傷をつけてしまった。 優馬がやったのだとわかったら、紀美子は何というだろう。 起こそうとしたなんて、信じてもらえるかどうか自信がない。 今まで優しかった紀美子もきっと鬼のように怒り、そして二度と笑いかけてくれないかもしれない。 自分は大切な人を失ってしまう。もう愛してもらえなくなる。
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