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「男の子の長風呂も、あんまりかっこよくないよ。はいこれタオル。引き出しに無かったでしょう? 全部洗濯中だったから、昔の奴出しといた。どれでも使ってね」
バスタオルを数枚、足元の脱衣かごにポンと入れて紀美子は笑顔でドアを閉めた。
見覚えのある、柔らかな水色とレモンイエロー。
3か月弱しか使われなかった、直のバスタオルだった。
肌の弱かった直のために、紀美子が百貨店で慎重に選び、購入したタオルだ。
今まで押し入れに眠っていたものを、紀美子が思い出して今日出してきた。ただ、それだけの事。
「うん、ありがとう」
そう。それだけのことだ。優馬は自分に言い聞かせるように強く心の中で繰り返した。
キッチンから再び紀美子が呼びかけてきた。
「今夜は優馬の好きなグラタンにしたから。早く上がってきなさいよ」
「うん」
紀美子が大好きで、大好きで。
弟の誕生で自分と接する時間が半減してしまうのさえ疎ましく思った。取られてしまうのが怖かった。
いつまでも自分の紀美子で居てほしいと願った。
そんな最愛の母親は今、願いどおりに自分を大切に育ててくれている。
昼間はフルで働き疲れているだろうに、これ以上ないほど自分に優しくしてくれている。
こんな幸せな日々はないのに。それなのに。
ひたひたと押し寄せる"何か”が、自分をどこかに引きずり落とそうとしている。
このままでは終わらない、終わらせないよと、耳打ちしてくる。
優馬は今度は頭の先までズッポリと湯の中に沈んだ。
このまま自分がここで溺れて死んでしまったら、紀美子は泣くのだろうか。
それとも解放されたと、ほっと胸をなでおろすのだろうか。
どちらの紀美子の顔を想像しても、不思議と心が安らぐ自分がいた。
「優馬、早くねー。冷めちゃうから」
お湯でくぐもった紀美子の声が、キッチンからかすかに聞こえた。
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