第7話 視線

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目では確認できないのに、爪の先に入り込んだ油絵の具が、まだ残っている気がしてならない。 松宮は、実家の洗面所で再び念入りに指先を洗った。 今週いっぱい、自分が顧問を受け持つクラブ活動は、体育館補修工事のため休止となった。 特に居残る作業もないので松宮は早々に自宅マンションに帰宅したのだったが、ゆっくりする間もなく実家に呼びつけられたのだ。 歳と共にわがまま度が増してきた、父親からの呼び出しだ。 祖父から不動産をいくつか受け継いだため、金に困ることなく一人暮らしをしている松宮の父親、忠彦(ただひこ)は、65歳という年齢よりも若く見えた。 小洒落たジャケットを着て優しい言葉でも口にすれば、今でも有閑マダムを振り向かせることはできるかもしれない。 生前の母親が父に惚れ込んだのも、そのスマートな容姿のせいだったのだろう。 その父を病魔が襲ったのは1年ほど前だ。 今でも悪ガキのように減らず口をたたく忠彦は、信じられないことにすでに余命宣告に近いものを主治医から直接受けている。 転移し施術困難な、やっかいな膵臓がんだった。 自分の状況を本当に理解してるのか? と、本人のその飄々とした顔を見るたび思う。 本心や苦痛をまるで見せない父親を、松宮はいつも横目で観察する。 忠彦は通院こそしているが、入院や有効でない苦痛を伴う治療を頑なに拒否していた。 「剛志、りんご剥いてくれないか。先週ひねった手首がまだ痛むんだ。ついでに洗濯物も取り込んで畳んでくれ。静子さんは今晩、来れないって言うんだ」 リビングから息子を呼ぶ図々しい口調は、まったく相変わらずで、弱々しさなどみじんもない。 「金があるんだから家政婦をちゃんと雇ったらいいじゃないか。静子さんだって、自分の家庭があるんだし、相変わらず好かれて無いんだろう? 世間体があるから来てくれてるだけなんだよ」 「やだね。見ず知らずのおばさんをこの家に入れるなんて。いいじゃないか、静子さんがやってくれてる間は、あの人にお願いするよ。好かれてないってのは、お前の邪推だろ?」 ソファにそっくり返って任侠映画を見ながら、忠彦が憮然として返してきた。 まったくどこまでもポジティブな男だと、松宮は嘆息する。
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