第8話 欠けた時間の存在

4/5
前へ
/185ページ
次へ
「あ、おい木戸。良かった。ここにいたか」 昼休みの中程、担任の松宮が廊下を歩いていた優馬に声をかけてきた。 「木戸は理科準備係だったよな。次の授業で使うから、これ理科室に運んで、授業の始まる前に皆に配っておいてくれ」 そう言ってテキストのような冊子の束を優馬に手渡してきた。 生徒数分なので、ずしりと重い。 「わかりました」 「それからな」 「はい」 「明日の放課後、木戸のうち家庭訪問だけど、聞いてるか?」 「え? 僕の家ですか?」 この中学校では希望者だけ2学期も家庭訪問をすると知っていたが、紀美子が希望したことを優馬は聞いていない。 そもそも、あんなものは登校拒否やいじめられっ子などの、問題児の家庭だけがやるのだと思っていた。 「木戸のお母さんは誰よりも熱心だからな。どんな学校行事も仕事を休んで来てくれるだろ? この家庭訪問も、母親ならやらなきゃいけない行事だと思われてるんだろうな」 本当はパスしてもらってもいいのに、というニュアンスがほんの少しだけ感じられ、優馬は改めて担任を見上げた。 「大事にされてるんだよ。いいお母さんじゃないか」 少し取り繕った笑顔を残し、松宮は職員室のほうに戻っていった。 あの担任は紀美子が継母だということを知っていてそう言ったのだろう。 ”いいお母さんじゃないか” と。 言われなくても分かっていた。紀美子は母親として最善の事を優馬にしてくれる。 学校の事も、家の事も、親子の会話も、スキンシップも。 優馬のために、ちゃんとした母親になろうとしてくれている。 泣きそうになるほど嬉しいのに、時々それが辛くてたまらなくなることがある。 この愛情は本当は、もうこの世にいない直にこそ注がれるはずのものだったんじゃないのか、と思ってしまって。 きっとあの担任は知らない。ギリギリのところで保たれている自分たちの関係を、知りもしないのだ。 それなのに一体何のための家庭訪問なのだろう。紀美子に何を伝え、紀美子から何を得ようというのだろう。 疑問と虚しさに、優馬はため息をついた。
/185ページ

最初のコメントを投稿しよう!

142人が本棚に入れています
本棚に追加