第9話 知らない少女

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「そんなことできるわけないだろ」 「じゃあ、奈津季の事は?」 床を蹴ってひらりと方向転換し、菜々美は優馬の顔を覗き込む。 「知らないよ。きっと本当に見てなかったんだろ?」 「私ね、いいと思うのよ。そうやって自分を守ろうとするのは悪くないと思う。もしかしたら、それが優馬の『身を守るため』の進化なのかもしれないじゃない?」 息が掛かるほど近くに菜々美の顔があった。優馬は何とか半歩横にずれたが、柱と壁の角に入り込んで逆に身動きできない。 「な……んだよ、来るなって!」 「優馬が逃げるからでしょ?」 甘い、いちごの匂い。 堪らなくなり菜々美の脇を掠めて教室の後方に走ったが、そんな優馬が面白かったのか、まるで鬼ごっこのように菜々美は優馬を追いかけてきた。 小学校のころは放課後3人でこんな風にふざけたこともあったが、今日の菜々美はその頃の菜々美とも違うように思えた。 無邪気さとはかけ離れ、少しやけになっているふざけ方だ。 その雰囲気の変わり様は優馬を戸惑わせ、次第に必死になって菜々美から逃げた。 そのうち優馬の手が棚に置いてあった硬質の備品に触れ、それはゴトリと鈍く唸って宙に投げ出された。 ひやりと冷たい汗が噴き出す。 円柱形のアルコール漬け標本だ。 優馬の足元で分厚いガラスの割れる音が響き、あふれ出した液体の海の中で、ぶにょりと白い肉塊が床に伸びる。 はるか昔に魂をなくしたそれは、骨が抜き取られたように形を保たず、床に張り付いた。 頭蓋骨の丸みがその分、生々しい。 凍り付いた沈黙があったが、それも一瞬だった。 「平気よ。松宮先生、この標本は元々液が漏れてるし処分するつもりだって言ってたから。叱られたりしないと思う。平気だから」 その声はまるで、「記憶を消すほどの罪じゃない」と言っているようにも聞こえて、優馬は少しばかりムッとした。 そんな芸当できっこない。 そう叫びたかったのに、話を蒸し返すようで怖かった。
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