第10話 月のうさぎ

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「月のうさぎになりたいって、思ったんだ」 その言葉に大きく反応して優馬を見たのは、草太の方だった。 「月のうさぎ?」 「うん。知ってる? 月のうさぎの話」 その問いに菜々美は答えなかったが、草太は首を横に振った。 「いつも仲良く遊んでいたキツネと、猿と、うさぎがいてね。ある日、その3匹の前に餓死寸前の老人が現れたんだ。キツネと猿は森を駆け回って食べ物を調達してきたんだけど、不器用なうさぎは、何も取ってくることができなかった。 だから自分の無能さを憂いながら、火を焚いて、そのあと『私は何も取ってくることができませんでした。だからどうぞ、私の体を焼いて、食べてください』って老人に言い残して、その火の中に飛び込んだんだ」 優馬の脳裏に、あるはずのない炎と、紀美子の笑顔が浮かんだ。 いつの頃からだろうか。このうさぎを思い浮かべると胸が苦しくなってくる。 感動してるわけではない。たぶん、うらやましいのだ。 誰かのために自分の身を投げ出すことのできた、このうさぎのことが。 その体を食べてもらうことで、誰かを救うことができる、このうさぎのことが。 「それで?」 草太が小さな声で訊いてきたが、優馬はのどがつまって、すぐに声が出せなかった。 「その餓死寸前の老人は、天の神が化けたものだったの。きっと下界の者の優しさを試そうとしたのね」 不意に菜々美が続けてくれた。 「神様は、そのうさぎの優しさに感激して、焼け死んでしまったうさぎを月に昇らせました。無償の愛の形を世界中の人々に見てもらえるように。おしまい。 ……優馬は、死んでもいいから誰かを助けたかったの?」 あまりにストレートに聞かれて、とっさに答えられずにいると、草太が突然大声で笑いだした。 「優馬って、けっこうマゾ! 食べてくださいって言うのか? 見ず知らずの年寄りに。自分の体を??」 それはいつもの草太とは違う、どこか尋常でない笑い声だった。 小学生がわざとふざけているように、体をくの字に曲げ、絞り出すように嗤う。 「すげぇエロい。ああもうダメ。なんか……、ちょっと笑いすぎて腹痛くなってきた」 ひとしきり笑った後、体を起こした草太の目から涙が零れ落ちた。
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